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セッションのtakのレビュー・感想・評価

セッション(2014年製作の映画)
5.0
 音楽映画だと期待してはいけない。これは格闘技映画だ。コロッセオやリングではなく、ステージで繰り広げられる、意地と意地のぶつかり合い。とんでもなくカッコいい映画だ。音楽を楽しもうと思って映画館に行くと痛い目に遭う。血は滴り、張り手と罵声が飛び、自動車はクラッシュし、死者も出る。しかし、劇中の演奏クオリティの高さを前にすると、ビートにとにかく身を委ねたくなる。ビッグバンドジャズの曲がちょっとでも好きなら、気づくと指先が、つま先が、踵がビートを刻んでいるのではないだろうか。

 音楽大学で変わり者の名物教授のバンドに入れられた主人公ニーマンは、教授の執拗なシゴキに耐え、ライバルを蹴落としながらドラム主奏者の地位を得る。教授の望む厳格なテンポを叩けず、超高速のダブルタイムスイング(倍のテンポで演奏するスイング)を苦手とする彼は、課題曲のキャラバンがうまくこなせない。血と汗を流しながら罵倒に耐える主人公。これはもはや音楽映画ではない。しかしそのプレッシャーから、コンサートで大きな失敗をしでかす。学校を退学した彼。スティックを握ることもなく、日々を過ごしていた。ある日、ジャズクラブのライブに出演していた教授と思わぬ再会。指揮を担当しているバンドのドラムがよくないから手伝って欲しいと言われ、カーネギーホールのステージに立つ。しかし…。

 音楽を楽しむことを望む、いちリスナー的立場でこの映画を観ると、煮え切らない気持ちも残る。フレッチャー教授は「音楽を演奏する意味」をニーマンに問う。彼はとても曖昧な返事をする。ストーリーが進み、彼が人よりも上に立ちたい、偉大な音楽家として名を成し認められたいという欲望が原動力になってることがわかってくる。家族と食事する場面で、フットボールでの活躍を自慢する男の子と父親に、自分の方が上だと言い放つ。正直いけ好かない奴だ。フレッチャー教授の厳しさは、情熱故の行き過ぎなのか、と思ったが次第に偏った考えの"人格破綻"によるものだと思えてくる。人間的にはどちらにも共感できる余地はない。唯一二人に共通することは、ジャズの演奏家は他のミュージシャンよりも優れているという"選民思想"。確かに演奏するには感性だけじゃなく、卓越した技術がいるジャンルだとは思う。劇中「無能なヤツはロックをやれ」と書かれた紙切れがピンナップされてるのが映されるが、まさにこれが彼らの自負であり、信条。音楽をする意味って、それでいいのか。プロになるということは、音楽を楽しむことよりも人を蹴落としていく厳しさばかりでいいのか。それがプレイする意味なのか。自分が演奏して楽しいのがプレイする目的であって欲しいのに、それを阻むのは"競争"という環境と"成功"なのだ。

 だからその煮え切らない気持ちは、演奏者の立場でこの映画を観るとその厳しさは逃げられるものじゃないとよく理解できる。スケールなど血のにじむような基礎練習を繰り返し、やがて上達するという過程(これが試練でもあり、楽しみでもある)を経て、やっと演奏できるようになる。チューニングが狂っている者がいる、と犯人捜しをする場面。僕自身も吹奏楽部時代に似たような経験があるので、あのトロンボーンの彼には同情した。ニーマンがダブルタイムスイングをマスターするまでの、スポ根映画のような展開。あそこまでしなくってもと普通には思うのだけど、フレッチャー教授の狂気じみた要求、それを心底できるようになりたいという気持ちに、ニーマンが持つ"野心"という偏ったモチベーション加わることで、この映画は一層熱くなっていく。

 音楽をテーマにしている目新しさこそあるけれど、この映画は実はいわゆる"鬼軍曹"ものだ。「愛と青春の旅立ち」のルイス・ゴセットJr.や「フルメタル・ジャケット」のリー・アーメイなど、映画史上に残る"鬼軍曹"たち。音楽というフィールドでこそあれ、フレッチャー教授の狂気はこの系譜だ。しかも3人ともアカデミー助演男優賞という共通点も。この手の映画が巧いのはキャスティング。鬼軍曹に怒鳴り散らされるのは、精悍な顔つきの役者ではない。雨の中で「帰るところがないんだ!」と叫ぶリチャード・ギアも、"ほほえみデブ"のヴィンセント・ドノフリオも、この映画のマイルズ・テイラーも、どこかのほほんとした第一印象を受ける。それが人が違ったように変貌するのだから怖いし面白いのだ。世間ではスポ根音楽映画として新しい地平を開いたように言われているが、決してそうではない。今の時代だから描けたような映画ではなく、むしろ普遍的な面白さだと思えるのだ。しかし。フレッチャー教授は最後までニーマンと対立し続ける。ルイス・ゴセットJr.のように主人公を認めることもなく、リー・アーメイのように途中で姿を消したりしない。最後の最後までニーマンを苦しませる存在だ。この映画が決定的にかっこいいのは、スティックを手にステージに戻ったニーマンが挑む大反逆。それは恥をかかせようとした教授に復讐すること。

 あの難題だったダブルタイムスイングのキャラバンを見事に演奏する中、二人が映画のラストで交わしたアイコンタクト。それは無言ではあるけれど、互いを本当に認め合った瞬間だったのではないだろうか。映画は曲のエンディングと同時に幕を降ろす。この後ステージで何が起こったのかを知ることはできない。もしかしたら再びニーマンが罵られたかもしれないし、無言で視線を交わしてステージを去ったかもしれない。ニーマンはプレイヤーとして認められたかもしれない。それを白黒つけない幕切れこそが、この映画のカッコよさなのでは。リスナーの立場で観れば、ラストの壮絶な演奏の素晴らしさに「すっげぇもん聴いた」と感動する。演奏者の立場ならば、ラストシーンのビシッと演奏が決まった瞬間のエクスタシーがどれだけのものか知っているはず。そして僕ら映画ファンは映像と音楽が一体となった瞬間のエクスタシーに心揺さぶられるのだ。その先に何が起ころうと知ったことか。素晴らしい音楽がそこにあって、お互いが関わった。それでいいじゃないか。
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