Torichock

神様なんかくそくらえのTorichockのレビュー・感想・評価

神様なんかくそくらえ(2014年製作の映画)
3.4
「Heaven Knows What/神様なんかクソくらえ」

順番が前後してしまい、申し訳ないです。
本作が、ぼくの2016年一発目の映画。
申し分ないくらい、ぼくの気持ちを代弁してくれている、そんな本作のタイトル。翻訳すると、意味は違うんだけどね。
久しぶりの良邦題。

観ている最中、僕はずっと嫌な気持ちだった。素直に言えば、面白い面白くないとかではなく、自分たちをクソッタレな人生たらしめてる堕落と怠惰な汚れに甘えまくった生活態度や言動、その一挙手一投足にただならない嫌悪感を感じていた。(そういう人間が嫌だから)
クソミソにコケ下ろしてやろう、と見終わった直後、確かに感じていた。

でも時間が経つにつれて、あいつらの気持ちが少しずつ僕の肉体に浸透していく感じを、この肌に感じ始めていた。

ハーリーやイリヤのような生活をしたことはないし、僕は彼女たちの心など分からないし、分かりたくもない。僕とはきっと、違う種族の人類だと思う。いや、そうじゃなくて、そう思いたいんだ。

どうしようもない人間が、同じくどうしようもない人間に固執してしまう。
それはまるで、自分が大嫌いな自分にそっくりな相手を愛することで、どうしても認められなかった自分を許してあげるような、そんな行為のように見える。
それは確かに甘えかもしれないけど、だけど、他の誰が、彼らのつん裂くような罵声や呂律の回っていない汚い言葉に真剣に怒り、を真剣に受け止めるだろう。
他の誰が、突飛な行動や、瞬間的な感情に身を任せる行為を受け止め合うんだろう。

きっと、いない。

彼女たちにないものは、物理的な居場所だけじゃなくて、感情を受け止めてくれる場所も、腐った自分を叱ってくれる場所も、スパークのような愛を慰め合う場所も、きっと他にはない、ないんだ。
それは、街を離れてどうこうなる問題ではないんだ。
底無し沼の真ん中で掴める手は、同じく底無し沼に足が沈んでる人の手でしかない世界。

僕が映画を観ている最中に感じた嫌悪感はきっと、この登場人物たちではなく、この登場人物たちの居場所がない世界だったんだ。

それに気づいた時、この映画をコケ下ろすことなんてできないって思った。
何を伝えてるのかも何を書いてるのかも分からないけど、こういう人たちが手を伸ばしてでも掴み、這い上がりたいと思える世界になればいいと思った。
けど、そんなのは無理だと分かってるから言わせてください。


神様なんかクソくらえだ
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