やばい。こんな映画観たことないし、多分類似する作品は一本もない気がする。プロット自体の流れは『エル・トポ』等に繋がるものもあるけど、そういうことではなく!
どこまでも語れるけど何から語りたいかまでもめちゃくちゃにしてくる。
劇中での唐突なカメラ目線およびカメラの前での身体の不可解な動きは、単なる異化効果ではなく、物語の中に明らかにカメラを存在させ、それがそのまま観客の存在に移り変わる。我々もその場に存在し、その空気を吸って吐き、彼らの顔に手で触り、泥の地面を歩く。当事者なのだ。我々の信仰・信条・あらゆるものに対するあらゆる価値観を総動員して、立ち向かわねばならない。
映画の中に生きる彼らもそのようにして存在している。
狂気と闘い、沈黙する神と闘い、他人と触れ合い、からかい合い、酒を呑み、排泄して、差別して、否定して、葛藤して、そして殺す。
この殺すってことが、どれだけ生物の行動におけるエラーなのか、最後には突きつけてくる。しかしそれにすら、必然性や必要性を感じてしまう。
『ニーチェの馬』が、窓から人間の動物としての業を覗き見る作品とすれば、
『神々のたそがれ』は、至近距離で人間の人間としての業をgazeする作品だろう。
まだまだ感想出てくるけどこれくらいで。
素晴らしい夜だった。新文芸坐さんありがとう。