YasujiOshiba

黄金の馬車のYasujiOshibaのレビュー・感想・評価

黄金の馬車(1953年製作の映画)
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日本版BD(IVC)。23-92。

原作はプロスペル・メリメの『Le Carrosse du Saint-Sacrement (聖なる秘蹟の馬車)』(1830)で、オッフェンバッハのオペレッタ『ラ・ペリコール』(1868)。戦後のヴィスコンティは『揺れる大地』(1948)で映画に復帰して、この作品を考えて企画をあたためていたが、実現できず断念。彼の実質的な師匠であるジャン・ルノアールが、ヨーロッパにおける初のカラー映画として映画化。

舞台は18世紀のペルー副王領の首都リマ。ペルーは日の沈まない国と呼ばれたスペイン帝国が南アメリカを植民地化したときの2番面の副王領であり、ポトシ銀山により経済的にも豊かだったという。

メリメの原作の主人公「ラ・ペリコール」(LA PERICHOLE)は、40歳年上の副王マヌエル・デ・アマットから寵愛を受けた実在の芸人ミカエラ・ビリェガス(1748-1819)が元。そのあだ名が「ラ・ペリッチョリ」(La perri-choli)。おそらくは「la perra chiola」(混血の犬)から来た表現で、痴話喧嘩のとき副王が彼女のことをそう呼んでしまったことに由来するという説がある。(佐々木直美「チョロのイメージと有力者たち」p.43. :http://www.cias.kyoto-u.ac.jp/files/img/publish/alpub/jcas_ren/REN_07/REN_07_004.pdf


しかしルノアールの映画化では、ペルーの混血(チョラ chola )の芸人はラ・ペリチョリが。イタリアから来たコンメーディア・デッラルテ一座でコロンビーナを演じるカミッラ(マニャーニ)に変更される。ルノアールはこのキャスティングをこう語っている。

「わたしにはどうしてもやりたことがあった。アンナ・マニャーニと映画を撮ることだ。ロッセリーニやヴィスコンティとの作品での彼女の演技は文句なしにすばらしかった。マニャーニはイタリアの本質(quintessenza)だ。彼女は本物の舞台の象徴であり、張子の舞台装置に、煙があがるランプがともされ、色褪せた金紙の虚飾で成り立つ舞台を体現する女性なのだ」
"Mi ero fissato un compito molto preciso: fare un film con Anna Magnani. Ammiravo senza riserve i risultati della sua collaborazione con Rossellini e Visconti. La Magnani è la quintessenza dell'Italia. Ella è anche una personificazione assoluta del teatro, quello vero, con gli scenari di cartapesta, le lampade fumanti, gli orpelli degli ori scoloriti."
(https://it.wikipedia.org/wiki/La_carrozza_d%27oro)

つまりルノアールは『ベリッシマ』(1951)を見ているということになる。共通点は主演がアンナ・マニャーニであること。さらにどちらも劇中劇であること。『ベリッシマ』が映画スターを夢見るマッダレーナ/マニャーニについての映画なら、『黄金の馬車』はコンメーディア・デッラルテの舞台でコロンビーナを演じるカミッラの物語となる。

冒頭とラストシーンを見ればよい。スクリーンの枠がとらえるのは、舞台の枠であり、カメラはその枠のなかに入って物語を語り始め、その枠から出ることで物語を終える。

エンドマークの直前、舞台と客席のはざまにマニャーニが残ると、愛した男3人の名前を呼ぶ。「フェリペ、ラモン、総督。もうあの人たちは存在しないの?」。舞台袖から座長が応じる。「消えたんだ。観客のなかにな。恋しいか?」マニャーニが答える。「少しだけ」...

過剰なまでに強烈なマニャーニの存在感のおかげで浮かび上がるのは、フィクションとノンフィクションの「あわい」。本物なのか偽物なのか。演技なのか真実なのか。どちらともつかないところに観るものを連れて行ってくれるのが、アンナ・マニャーニという人。

だからヴィスコンティは「登場人物」を描くのだといい、ルノアールはマニャーニのなかに「民衆の女」と同時にある種の「高貴さ」さえも見出した。それはこの映画のラストに、ある種の崇高として立ち上がる。

トリュフォーによれば、この映画は「今まで撮られた映画のなかで最も高貴で洗練されたもの」でありルノアールを理解する鍵となる「傑作」なのだという。映画を見終わったとき胸に熱いものを感じたぼくは、そんなトリュフォーの言葉に深くうなずくしかない。

追記 7/21:

 原作の『Le Carrosse du Saint-Sacrement』はネット上では「サン・サクラメントの馬車」という記述もみかける。サン・サクラメントは地名ではなく「聖なる秘蹟」のこと。

 それは最後にカミッラ/マニャーニが馬車を教会に寄付するときの理由からわかる。リマで誰かが亡くなりそうなとき、臨終者に聖体の秘跡をさずけるために(Viatico)、神父が歩いて向かっていたのでは間に合わない。だから「黄金の馬車」で、臨終の信者のもとに「聖なる秘蹟」(Saint-Sacrament)を運んでほしいというのだ。

映画の中では「将来、人が死に瀕して宗教の慰めを求めるとき、この黄金の馬車によって、最後の秘蹟をその人のもとに届けることができれば、その人の魂を救うことができるだろう」
(In the future, when a person facing death begging for the solace of religion, this golden coach will carry the last sacraments to him, in time for his soul to achieve salvation.)

 この「最後の秘蹟」(the last sacraments)が「聖なる秘蹟」(Saint-Sacrament)。それを運ぶことで「黄金の馬車」の黄金は、もはや虚飾ではなく本物となる。

一方でカミッラ/マニャーニは、虚飾の舞台と本物の人生のはざまにある。ラストシーンは、冒頭の舞台。そこで座長のドン・アントニオがカミッラを呼ぶ。

「カミッラ、カミッラ。舞台へ。本当の人生なんてもの(the so-called real life)に無駄な時間を使っちゃダメだ。おまえの居場所はわたしたちのところだ。役者、芸人、道化、イカサマ師のいるところ。幸せがみつけられるとしたら、それはどこかのステージ、どこかの舞台、どこかの広場で、2時間ほどほかの人格になるときしかないのだよ、それこそがお前の本当の姿なのだから」。
(Camilla! Camilla, on stage! Don't waste your time in the so-called real life. You belong to us, the actors, acrobats, mimes, clowns, mountebanks! Your only way to find happiness is on any stage, any platform, any public place, during those two little hours when you become another person - your true self.)

カミッラは、まだ少しだけ「本当の人生なんてもの(the so-called real life)」に未練がある。だからあの3人の男の名前を呼ぶのだ。リアルライフの愛は、まだ恋しい。でもそれは少しだけ。だからカミッラ/マニャーニは、ヴィヴァルディの厳かな調べのなかで、伏せ目がちの眼差しもちあげ、客席の席の方を向く。

次の瞬間、カメラが捉えるのは、大きな舞台に小さく映るカミッラ。背景には緞帳の赤。カミッラのドレスは黒。その小さな姿から、ふたたび物語が始まることを示唆しながら、ルノアールはそこに大きなエンドマークを置く。

追記2:

ルノアールのこの映画、撮影は同時録音で言語は英語だったという。なるほど、だからBDは英語版なのか。

マニャーニの癖のある英語は、イタリアから来たという設定でクリア。ときどきイタリア語(ローマ語)でまくしたてる罵詈雑言は理解されないという設定だけど、やっぱりマニャーニはイタリア語のセリフが圧倒的によい。

フランス語版もあるようだけど、こちらはイマイチらしい。これもマニャーニみずからが吹き替えにあたったというけれど、確認はとれていない。

撮影はローマのチネチッタだけど、ルノアールはアメリカで活躍しており、久々のヨーロッパ映画。でもフランスではなくイタリア。ヴィスコンティの協力で撮っていた『トスカ』が戦争で中断したこともあるのだろうか。
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