1892年文緑の役、全国を統一した豊臣秀吉は明を征服する足がかりとして朝鮮に出兵。破竹の勢いで北上する。しかし明から援軍が送られ日本の陸軍は南海岸に退く。一方日本も水軍イスンシン率いる朝鮮水軍に苦戦を強いられていた。5年後の1597年、慶長の役秀吉は朝鮮に14万にを超える兵を送り旧暦8月16日に南原城25日に全州城を落とす。この頃イスンシンは王命に背き免され彼なき水軍は破滅する。反逆の罪で拷問を受けたイスンシンはその後一兵卒として南海岸で戦っていたが水軍統制使に再任され軍を補強しつつ西へ向かう。そしてチルチョンリャンで残ったわずか12隻の船を引き取り南海岸の西端珍島碧波津に陣を張った。しかしこの頃20キロ先のオランジンには300隻を超える日本の軍船が続々と集結していた。