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たかが世界の終わりのYoshmonのレビュー・感想・評価

たかが世界の終わり(2016年製作の映画)
4.2
2017.2.13
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グザヴィエ・ドランの世界観が全開。

一部始終、
ひとつの家族、一つ屋根の下で行なわれる対話で構成された作品。

登場人物は、
○母のマルティーユ(ギャスター・ウリエル)

目一杯のお洒落をして12年ぶりの息子を迎えて、息子の好物を作るのに精を出す。
親元を離れたいけれど一歩を踏み出せないでいる妹と、長男の義務感から自由に生きることが出来ていない兄の背中を押してほしいと、自分の生き方を選んだルイに言い寄る。

○年の離れた妹シュザンヌ(レア・セドゥ)

ほとんど記憶に残っていない兄の帰郷に胸を躍らせ、普段はしない化粧をしてお出迎え。

○兄のアントワーヌ(ヴァンサン・カッセル)

歓迎ムードの二人とは対照的に、陰険な態度を崩さない兄。
抑圧的で時には暴力に訴える兄。

○兄の妻カトリーヌ(マリオン・コティヤール)

兄の妻として、控えめながらしっかり礼儀と愛想を持っていて、一番客観的に状況をつかめているように感じる存在。

○そして12年ぶりにこの家庭に帰郷するルイ(ギャスター・ウリエル)、
自分にもうすぐ訪れる「死」を告げる為に。

グザヴィエ・ドランが作品で描く「愛」の形は、「家族愛」と「同性愛」。

残念ながら「同性愛」については理解出来る部分はかなり限定的ではあるけれど、「家族愛」ならもっと一般的な愛の形であるから共感出来る部分は多くある。
ー と思うのが普通であるが、ドランの描く「家族愛」は日常で良く目にする家族の愛をより「強烈」に脚色して際立たせたものに感じる。

そう思わせるのは、兄アントワーヌの存在。

自分に近しい人(家族)で、どんなに些細な話題でも「ああ言えば、こう言う」関係は僕にもいる。
だが作中の兄アントワーヌの発言や激情には共感出来る部分と、理解の及ばぬ場面があったのも正直なところ。

「愛する」状態を維持することが難しい状況になった場合、例えば「夫婦」という形の愛であれば、最終的に「離婚」という選択肢もある。
だが「家族」は切っても切れない「愛の関係」である。「マイ・マザー」にも共通すると思うが、グザヴィエ・ドランが描く家族愛はまさにその選択肢の無い「愛」における困難さであろう。

オープニングで流れる音楽がいきなり”Home is Where It Hurts"なのだから強烈である。

音楽以外にも場面場面での家族の表情がダイレクトに伝わってくるクローズアップした撮影も上手く使われていて、一部始終緊張感のある、エネルギーを使った鑑賞だった。

自分の頭の中の整理がてら長々と書いてしまったが、鑑賞後の頭の中と感情はこんがらかってしまっているので、公開中にもう一度観に行く。そしてしっかり反芻してもう一度書こうと思う。

↑(2017.2.13のレビュー)
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To Be Continued...↓
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