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みどり女
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『みどり女』に投稿された感想・評価

✔️🔸【80年代自主デジタル化選】🔸『みどり女』(3.4) 及び【pffアワードEプロ】🔸『ちあきの変拍子』(3.3)🔸『I AM NOT INVISIBLE』(3.4)🔸『わたしのゆくえ』(3.4)▶️▶️ 

 成島出と書いて何と読むのか教えて貰ったのに憶えてない程、あまり縁がないまま来てる。が、読み方は判らずも憶えてるのは、ここ10年くらいは会ってなく、引っ越し時に住所や電話番号もなくした、京都の元校長で上映活動もしてた、上京もかなりの頻度の方が、この監督は凄いと事あるごとに仰ってたからで、勿論商業映画では、二本立ての添え物扱いで何本かは見てるのだが。
 『みどり女』。成島のアマ時代作にして、出世作を、これ迄気取ってそうでやだなと避けてたのを、やっと観ると。何より、これは我々が考える映画の全てだ。我々とは世代的にも近い昭和30年代生まれの映画観からか。『突然炎の如く』の女神に仕える男達の、平衡感覚。ルノワールの1対3の関係でもある。が、モローにあった性の法悦感はなく、ヒロインは男性的に動きも外見も硬く、性とは無縁だ。緑色の性器の惹き付けの片鱗もなく、性器ではないあるかないかの微妙な性差の問いかけによる崇拝と平等結束感。敏八の、何をする事もなく浮遊し周りに理解不能の遊戯にいそしむ時間の消失。『津軽じょんがら節』斎藤の北の暗い波と浜、そしてボヤけてるも今に繋がる生きざまの記憶の像と呪縛。小津というよりドライヤーを思い起こさせる筆致の厳格さ。イメージだけだが、固定カット長回し、各人のアップの押さえ、90゜には決してならないがそれを遵守してるかにみえる角度変やどんでん。カメラ移動も厳密めにみえるが輪になった4人の回転と逆に廻るカメラ、の移動ら、自由にたゆたってもいる。只、キャラの生き方もカメラの支配も、内実よりも、スタイルが優先し、真の躍動感はない。当然行き詰まりが来る。ぶっ飛ぶ事、殺人の思い立ちと実行、海外迄の金と余裕無し。ここに来て、角度変や切返しにピタッと嵌まり極る瞬間が出てくる。4人での飛び降り自殺へ、躊躇いと実行、ヒロインだけ残り、顔に泥を塗り、スーパーで手当たり次第買って投げつけ崩れてく、カメラワークも。
 駅改札や家並みの今や消えた光景、アパート内外の生活の不足だらけの空洞感、それら、見事に映画と現実を自己の目線から捉えた風景や日常は、我々世代には今より近しい、ということもある懐かしさ。それ以上に映画表現は手の内に掴み得ない実感あり、映画という幻想と幻滅、過去と未来への鍵、をかなり段階的建設的に捉えていた時代だった。それを正に体現し、掴み得ない映画スケール・映画美に昇華しえた、稀なる作。その分独自の踏み込み泥臭いリアリティには不足も感じる作。
 それから40年くらい、今は手に取る取らないは別に映画史の全体を近場に掴みどうにでも対処できる錯覚も持てる時代。映画史はそんなに軽いのだから、奉り引用ポーズや、軽視無視も出来る。しかし、映画に真に畏敬を感じ、それを捨てられなかった成島とその世代は、商業映画に踏み入っても、決して変に独善的に熱せず、クールに正確に素材を捌いてる、好感と内なる手応えは一貫してく。
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 それにしても、生まれた時からTVは勿論ネットにも親しんできた世代。持って身に付いてる映像通した素材の捌き。渾身壮大な成島の作品と、点数的には近くなるから、メディアとして進化・安価になるが顕著な映画ならではの、見かけの充実か、確かな前進か。
 法事帰省などがあり、今月は目当てのPF Fやルノワール生誕130年祭ね観たいのが物理的に観れないが、取り敢えず一番組だけでも。成島の後は、井川らの追悼プログラムを観たかったが、半徹夜明けなので体力睡魔持たずで、先の早い時間のを、ということもある。実際はコンペ以外は料金1500円という超高額に恐れをなして、かな。
 『ちあき~』は高校の放送部の作だが、かなり時間や場・人間動員に贅沢な条件は得て、苦難少なく細やかに撮り得てるが、タッチの本質の甘さも露呈してる。しかし、仕掛けの二重のどんでん返しは、若さや映画の枠遊び云々以上の、無意識意思で、こちらも抵抗感をスッと捨てられる。
 「委員長」なるあだ名とそれに相応位置を自他認める状況に、不満溜まる一方の高校生ヒロインがキレて、それを放棄したは、心の声の分身に過度に挑発されたからだったが、それを自分の中で刺し殺すと、親友らの深い理解も見えてきて、不本意ベースに価値を認め直す。全てを遠くから見守り続けてくれてた同学年生も、彼女の幻影と明かし、いなくとも安心と消えてく。
 デクパージュの細やかさや滑らかさが玄人をも越えてる微妙微細味。しかし、継ぎ接ぎは真の本道を外し続けてる、ミート力のやや欠けた肩透かしも表し続けてたのが、映画ギミック以上の自然体スケール眼前に脱帽も。
 『I AM~』は、フィリピンの有名スラム街の更に外れの知られざる、見棄てられたコミュニティを訪れ、あらゆる世代にインタビューを試みてくドキュメンタリー。正対して話させるやや綺麗事ドキュメンタリーだが、しかし、その前もっての上から目線のなさから、彼・彼女の、思わぬ、コミュニティへの愛着・誇り・アイデンティティも仄かに屹立してくる。
 そして作品は、後半がひき継いでくるが、似た場から来日して成功、いま故郷で裕福な伯母とのネット会話映像付き画面占の対照。スラム街はあくまで出て捨てるべき存在で、気弱さある孫の作者の援助したい共感の表しに、彼らが貧しいは努力が足りなかった自業自得と根本否定。冷たくはないが、当然と。前後半の対比構成・感覚が素晴らしい、内的効果。
 『~ゆくえ』は、ヴェンダースやドゥニを思わせる、生きてる都市の切り取り・不思議に息づかせるセンスが、素晴らしい。自制したリズムと構図の極り方、新たな生命力の流れ出す地下水的確かさ。
 探偵事務所に勤めるヒロインが、各スタッフが集め目的に向け駆使した、モニターの映像から、捜査対象ではない偶然脇に修まりの懐かしい馴染みの顔をみつけ、1日仕事を休み、彼の掴んである生活パターンから、すれ違いを体感し、その生態を1日追ってカメラに収めてゆき、事件には結び付かない彼の日常を、犯罪に対すと同じサスペンスの何かに、生活の場迄及ぶ中に組み上げてく。街の光線、闇や影、構築物の交錯、様々にズレ其々で有機作ってく行動と求め、また普通に戻る一時のアバンチュール感。
 これら3本は特に映画史を塗り替えるといった意気込みの作ではないが、意識そうなく、身に付いた映像を介するセンスと構成の力を著してる。
ニシ
4.9
中盤と終盤の、みどりの背中とそれ越しの海を捉えたそれぞれのショットがもう美しすぎて、もう言葉なんていらないが、あまり記憶が定かではないけど台風により荒れた海→みどりの顔の右側からの寄り→背後ショットみどりややボケの順番の、キレ味の凄さ。

冒頭の、釣りをしているみどりを前方に配置し男3人を後方に配置した構図を向かって上手30.40メーター程離れて置かれたカメラが、彼女ら4人を映画に真空パックするような甘美な誘惑に駆られうっとりする。本作が音楽的でメロディアスでありながら職人的な映画であることは言うまでもなく、それはみどりが小林を略奪する導線を単純でありながら厳密なモンタージュで魅せていくこと、熱海を散策する一行を捉えるカメラが某名曲と共にテンポよく観客の認知を先回りしていったかと思えばその夜旅館で大浴場を出たらしき原田が部屋まで戻る足取りを淡々とそれでいて少し恐ろしく追っていく緩急の付け方にある。もちろんそのあとの宴会芸的な踊りも4人の刹那な引力として焼きついている。旅館御膳にそこそこ金と労力を使っていて、自主映画が持ちうるの歓びに正直なところも気持ちがいい。

4人の不協和が深まっていくアパートでのみどりと小林の会話は、かなり不自然な間で茶碗を持ち上げ啜らせたりしていてその動作がカッティングオンアクションの契機として機能するだけに留まらずキャラクターとしての個が立っていき、フレームが(文字通りの)外へ外へと拡張され、みどりが北国へと去ってしまうことを決定づける。細かいことだけど、美しい大雪原の印象的なみどりの歩きをカメラに収めていく中で、その中の1つ、彼女とたまたま道ですれ違う地元のババアの方にカメラを向けていくっていう、小さいネタのひと笑のために用意周到する生真面目さが好きだ。

みどりが帰宅して山田と口論になり台所へと一時退避するとカメラは右に滑りみどりの後ろ姿を捉え山田の台詞はフレームの外から空虚に響く、そして漸くカメラがカットバックされお互いの顔を映しだすとその亀裂が顕在化されていくこの画面設計の巧みさ。そしてこの映画の何よりも特徴的なところは、岸田今日子が出演している映画?をテレビに流しながら手持ちのカメラで4人それぞれの顔を追っていくシーンだ。それまでの4人のすき焼き食べたり洗濯ものを干したりする生活感が解体され、4人の剥き出しの(ノンフィクションとしての)個人がそこにあるという非常に異質でゴツゴツとしていて怖い。そしてそのカオスがのちに殺人を実行しない原田や自殺をしないみどりへと繋がっていく。へずまりゅうの何倍も意欲的で大胆なスーパーマーケットの長回し。

この映画を傑作たらしめてることを挙げることができるとするなら、まずみどりの持つミステリアスな顔と、極めて個人的な問いを立ててそれに対してその歴史性といか変遷を的確に切り取っていきメロディアスに仕上げるモンタージュであること。そのセンスと自らが磁場となれるデカさを見習いたいものです。この素晴らしい、指針にも駆り立てるものにもなる『みどり女』が上映機会が今後もほとんどないだろうというのは残念だ
ずっと監督のファンですよ。いつか、また見たい。