三樹夫

顔のないヒトラーたちの三樹夫のレビュー・感想・評価

顔のないヒトラーたち(2014年製作の映画)
3.0
1958年、ドイツの検察庁へ元アウシュビッツの看守が教師をしていると訴えが届く。エリートの新米検事が担当することになるが、実は国の恥部は隠す方針により特に若い世代はアウシュビッツで何が起こったのかよく知らず、それは主人公も例外ではなかった。何とか証人や資料を集め、ドイツ国内で裁判を開いてナチスの罪人を裁こうと奮闘する主人公。わざわざ国の恥部を掘り返すな、それが国のためだと愛国的な行為として臭いものに蓋などの嫌がらせや妨害を受けながらも、1963年のフランクフルト・アウシュビッツ裁判までの過程が主人公を通して描かれる。
裁判で裁こうとしているのは「凡庸な悪」となっている。「凡庸な悪」とは、「第二次大戦中に起きたナチスによるユダヤ人迫害のような悪は、根源的・悪魔的なものではなく、思考や判断を停止し外的規範に盲従した人々によって行われた陳腐なものだが、表層的な悪であるからこそ、社会に蔓延し世界を荒廃させうる」というものだ。つまりナチスの命令に従った人の罪を裁こうとしている。映画ではメンゲレを捕まえ裁判で裁こうとするが、この映画においてメンゲレは「凡庸な悪」の最たるものという、「凡庸な悪」の象徴として提示されている。

テーマには特に言うことはないが、良くも悪くも学校の授業で見せられそうな映画というか文科省が作ったような映画というか、映画としては上手くなく、かなり説明的で分かりやすくしようとし過ぎており、どこをとっても平凡な演出で、映画として平凡な出来になっている。
冒頭、後の主人公の彼女が交通違反の罰金を払って勢いよく部屋を出ていく時に、「威勢のいい女性だ」の台詞がありこの映画はイマイチなのでは不安になったが、予想は当たり最後までイマイチの映画で終わってしまった。彼女が威勢のいい女性なのは部屋を出ていく様を観ていれば分かることだし、それを台詞にして言う必要は全くなく説明過剰だ。こう演出をしてしまう時点でイマイチさが露呈している。
演出は紋切り型というか教科書的というか平凡な演出がずっと続く。アウシュビッツを知っているかと周りに手当たり次第訊ねる、証言を聞き部屋を飛び出し号泣する書記のおばちゃん、ショックを受け酔っぱらった主人公が「お前はナチスなのか」と手当たり次第通行人に絡む、どこかで観たことあるようなやつの上に平凡な演出で、紋切り型や教科書的だなと感じる。主人公に嫌がらせしたり冷ややかに見てくる連中も『半沢直樹』的な悪人の描き方で、こいつは嫌な奴なんですよ悪い奴なんですよと分かりやすくし過ぎで説明過多。検察庁へ元アウシュビッツの看守が教師をしていると乗り込んでくるシーンでも、それを見ているモブが腕組みしていて、もっとちゃんと演出つけてあげて画作りにもっとこだわってと思う演出がされており、金太郎飴的にどこを切り取っても平凡な演出が出てくる。主人公の彼女は全カットしても問題ないぐらいいらないキャラクターで、男性ばかりだから女性入れとくかとか調査シーンばかりだから恋愛入れとくかみたいな、作り手は何一つ活かせておらず持て余してすらいる。

なんでこういう授業で見せられそうな映画って演出がクソダサになるんだろ。役人が作るやつっぽいダサさがある。誰にでも分からせるために説明過剰で教科書的になるからクソダサになるのかな。中学生の時体育館で観たいじめについての映画で、いじめられっ子といじめっ子がガラス越しに手を合わせるシーンがあり、あまりにもダサい演出で爆笑が起こったことを思い出す。演出がクソダサだから授業で見せられそうな映画って感じるのかもしれない。

この映画は主人公の成長物語のようになっているが、主人公が結構バカに見える。第二次大戦についてあまり知らないにしても、それに触れた時の反応がバカっぽくて、こんな人が検事やってて大丈夫かとすら思った。「凡庸な悪」や愛国的臭いものには蓋についての掘り下げが深くないからテーマ主義的な映画として微妙だし、主人公の成長物語としても微妙だしで、映画として何とも微妙な出来だなと感じる。テンプレのコンピレーションアルバムのようなキャラクター設定および描写が稚拙で、観ていて退屈さを感じてしまう。
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