新文芸坐シネマテーク。大寺眞輔氏の講義付き。
オルミの長編処女作。しかしたかだか27歳か28歳かそこらでこれほどの作品を撮ってしまうってのは天性の資質としか言いようがない。
説明的ではない、サイレント映画的に純粋な身体的アクションの連鎖で雪山に閉じ込められた中年男と若者の心情的な機微と距離感の変化をくまなく表現し切る演出力。そもそもセリフが非常に少ない。2人の視線の交差あるいは非交差。フレーム外にいる相手へのイマジナリーな視線。あるいは特に前半の音響的な面白さ。日常生活の中で発生する音響を誇張気味に扱うことにより、それ自体でスペクタクルになっている不思議さ。のべつかかる音楽はラジオから流れているようにも聴こえるが、これも絶妙な効果がある。情動的効果のためというよりは意匠として使われているのが新鮮である。個人的には音楽を使いまくる映画はあまり好きじゃないんだが、これは例外だ。
映画がまず表現したい感情や内容ありき、でそこに従属するのではなく、様々なディテールそれ自体の映画的な工夫の集積によって自ずと独特かつ控えめなユーモア、詩情が生まれ出る。非常にモダンな感覚だ。これは映画的な才能がないと出来ない芸当で、まさに映画にしか表現できないものがここにはある。
これが作られた1959年当時、フェリーニはバリバリだったし(ちょうど『カビリアの夜』や『甘い生活』の時代)、ロッセリーニはいわゆるネオ・レアリズモからはやや離れて来ていたが『ロベレ将軍』辺りを撮った時代。アントニオーニは『さすらい』や『情事』、ヴィスコンティは『若者のすべて』に『白夜』。それぞれの作家の1番脂が乗り切った時期とも言えるが、このオルミ作品はそれらのどれにも似ていないし、彼らのそれ以前の過去作にすら似ていない(ネオ・レアリズモ的なところはあるが、それとてロッセリーニ的な厳しさとも違う)。要は感覚が決定的に新しい。恐らくオルミは単独に屹立する独自の存在なんだろう。どういう個性なのか。映画も不思議ならオルミという存在自体もなんだか不思議だ(余談だが1959年と言えばむろんゴダールの『勝手にしやがれ』の年。思えばすごい時代だ)。