都部

映画ドラえもん 新・のび太の宇宙開拓史の都部のレビュー・感想・評価

2.0
元ネタの『宇宙開拓史』の筋書きや物語の順序はおよそ同じであるが、リメイクにあたりロップルの姉貴分:モリーナの登場と彼女に纏わるドラマが追加されている。

しかしこれが元の物語の要素にさして帰依することなく独立しているのは大きな問題で、土地の権利/移民問題を巡る本作のテーマ性にも関与せず、それに追加要素を接合させる努力も見られないのはどうなのだろうかと考える。

作画/演出面は好き好きがあるかもしれないが、時代に合わせたものと考えると適切であると言えて、むしろ元の作品は薄味すぎるくらいなのでこれはこれで悪くない。わさドラ映画の初期は方向性を模索中であるから、旧劇至上主義的に一概に否定するのも大人気ないというものだ。

しかし物語に関してはモリーナのエピソードが本作の問題点をやはり一手に担っており、それが結果として元の要素の陳腐化を招き、全体の完成度を著しく落としている。

コーヤコーヤ星への移動のさ中で、船外の宇宙船修理で犠牲になった父親を抱える彼女は父を見捨てた──とも取れる──村人をよく思っておらず、外部の人間に位置するドラえもんたちに協力を仰ぐことに抵抗を見せる。この役回り自体は良好で、実際問題 ガルタイト鉱業の支配下に置かれたコーヤコーヤ星の人々が自ら立ち上がらなければ同じことを繰り返すだけだろうというのは指摘として正しい。しかしそれは嫌味な注意喚起程度に留まり、結局 大元のドラえもん達による解決が成されるので、彼女の役目は果たされていないも同然である。

また彼女と父親のドラマも物語から浮きに浮いており、コーヤコーヤ星側の語り部 ロップルすら関係しないドラマは自己完結の様相を呈していて、月並みな家族ドラマの域を出ないのが腹立たしい。映画に必要と判断された見せ掛けの感動要素なのが明け透けで、そんな本編との共鳴を見せないような付加価値皆無のエピソードを足すことをリメイクと呼ぶのは観客に対する"舐め"とも言えるだろう。

元ネタから12分上映尺が拡大された本作であるが、モリーナのドラマに比重が置かれたことでのび太とロップルの友情の描写が粗末になっているのも問題だ。むしろ印象は薄っぺらで、物語の視点を散らしたことで却って義務的な友情要素にすら見える作りになってしまっているのが忌々しい。であるから原作に甘えた部分が多く見られる上に、再構成の妙すら怠った作品と評するのがおよそ適切と思える。
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