dm10forever

JUMPINGのdm10foreverのレビュー・感想・評価

JUMPING(1984年製作の映画)
3.8
【可能性】

だいぶ先は見えてきたとはいえ、今年の5月はまだまだ忙しい・・・
何とか残り1週間ちょっとをのりこえ乗り切れば、YOSAKOIソーラン祭りや北海道神宮例祭(いわゆる「札幌まつり」)も始まり、悶々としていたdmも一気に「夏全開モード」に突入できる・・・・はず・・・・。

最近はちょっとずつ劇場復帰も果たしつつ、それでも日々の「映画モード」はまだまだ本調子ではないままですが、全く観ていないっていう訳でもないので、レビューもボチボチ書いていきましょうか。

で、この作品。
たまたまYoutubeでお気に入りの猫動画を観ていた時に上がってきて「何だこれ?」って感じで再生。

(あれ?手塚治虫って書いてなかったっけ?)

オープニングの作画タッチがいつもイメージしていた「手塚作品」のものとちょっと違ったので思わず停止して詳細を確認。

(やっぱり手塚治虫だ)

内容自体はセリフなしの6分間。
全ては主人公の目線のみで描かれる。
最初は片田舎の道をスキップ程度の小さなジャンプがやがて民家の柵を飛び越え、屋根を飛び越え、森も川も飛び越え、やがて都会へと辿り着く。
ジャンプはどんどん高くなり高層ビルだけではなく飛行機にも届くくらいにまで高く、そしてより遠くまで飛べるようになっていく主人公。
やがて辿り着くのは、今まで行くことが出来なかった「その向こう側」。

それは図鑑や新聞やテレビでしか見たことのなかったような知識や経験だったり、時には同じ時間軸で人と人が殺し合っている戦場だったり、核爆弾が炸裂した瞬間の爆心地だったり・・・。

手塚治虫はこの作品を通して何が言いたかったんだろう?

勿論「戦争はイカン」とかそういうのもあるのかもしれんけど、どうにもそういう「押しつけがましい正論みたいなもの」はこの作品からは感じない。
むしろ、純粋に「可能性」を描きたかったんじゃないかな・・・って感じた。

それは人間そのものの可能性(とんでもない跳躍力が身につくとかではなく)かもしれないし、もしかしたら彼が追及していた「アニメの可能性」かもしれない。

この作品を観ている間、僕は日頃のこまごまとした煩わしさとかイライラとか悶々とかを全て忘れてこのアニメの世界に没入していた気がする。
十数センチ四方のスマホの小さなモニターの中でただ繰り返しジャンプしている主人公の視線とリンクしながら自分も一緒に世界を旅しているような不思議な感覚。

この6分の作品に「物語」や「起承転結」を無理やり捻じ込まず、ただ主人公が繰り返すJUMPに合わせて一緒に世界を旅してみたい、もしかしたらそれは手塚治虫本人の夢でもあったのではなかろうか。
そしてそれを「アニメ」という方法を用いて表現したのではなかろうかという気がしました。

それは「現実的には出来ない」と「アニメだから出来る」の間にある一瞬の境界線のようなもの。
変にネガティブになるのではなく、アニメによって生みだされる可能性っていうものなのかもしれない。

宮崎アニメは作画のスケールも桁違いに凄いし、世界観も壮大だし、泣けるし、とっても素晴らしい作品たちであることに間違いはないんだけど・・・どこか「距離感」を感じてしまうのって僕だけかな・・?

その感覚の正体が何なのかはよくわからないんだけど、手塚治虫アニメの中にある「夢」とか「可能性」に対する純粋な描き方に感じる安心感とはちょっとタイプが違うかな・・っていう事なのかも。

どっちが好きとか嫌いとか、決してそういう事ではないんだけど、でも、無人島に行く時にどちらか一つだけもっていけるならどっち?って聞かれたら・・・僕は手塚アニメを選ぶ気がする。

漠然とだけどね。
でも、寂しいときや苦しいときに隣にいてくれそうなのはどっちかな?って考えたら・・・。

そんな感じかな。
dm10forever

dm10forever