ふぁんたずま

クリーピー 偽りの隣人のふぁんたずまのネタバレレビュー・内容・結末

クリーピー 偽りの隣人(2016年製作の映画)
4.8

このレビューはネタバレを含みます

『CURE』のネタバレもあります。

これまで見てきた映像作品の中でも一番怖かったし、なんなら人生で経験してきた中でも怖い経験のトップクラスに……という感じだ。明るい部屋+経過時間が分かっている、という状況でこれだったから、もし映画館だとしたら本当に怖さで死んでいたかもしれない。二度と見たくない感覚もある。

郊外映画としての性格。隣人が何やっているかなんてわからないしそこら辺の空き家に死体が6年放置されていても誰も気づかない(その意味では中島哲也的な映画だ)。

ラストシーン。教育を通して状況に順応させることで、それを瓦解させる事件(もちろん家族の殺人は事件なんだけど、公的に事件として扱われる可能性を排除されている)の発生可能性を抹消させる権力に抗して、それでも事件は起こりうるし起こっていると世界に対して告げること(香川照之が犯人でこういった内容の映画がこのタイミングで配信されていること)。映画を通して「この状況は瓦解しえないんじゃないか」という絶望感に陥らされた(=ある意味では康子らと同様に、西野によって洗脳させられた)(突っ込みどころが多いという指摘も多いけど、それに気づかせることなく没入させられるか否かが勝負の映画だったと思うし、僕はそうさせられた)観客の緊張からの緩和と同期している点もすごい。

握手を求められた康子が前を向いたまま後ろに差し出すシーン、本当にちょっと不気味すぎてヤバかった。あよ、西野の家を康子がはじめて訪れたシーン、ほんのちょっとだけカメラがズームを解いて玄関の見える範囲が多少広くなるだけでめちゃくちゃ怖い。あと、大学で聴き取りの時のガラスの向こうの風景も様々に印象を残す。

『CURE』は教育=洗脳が(まあ非現実的と言ってもいいほどに)成功しすぎる映画だったのに対し、こちらはその失敗可能性を相当に強調した映画だと思う。ラストシーンもそうだし、最初のシーンも、高倉の早紀(まあまず間違いなく前の事件で殺人とか処理をやらされたんだろう。解放はどういうタイミングでなされたんだろう。)から全てを聞き出せるという見込みが外れてそのまま映画からフェードアウトしていく感じも、康子が結局説得に応じなかったシーンもそうだ。そう考えると、高倉も西野もそれに関して「人ではない」と評されていることは印象的で、西野はもしかして過去に田中を洗脳しようとしたけど失敗していて、それで殺すしかなかったのでは……なんて想像もする(ただの隣人付き合いの範囲なら田中がそこまで言うにも至らない気がするし、序盤の付き合いをやっていないという発言にも背景が生じる)。

関係のない他作品の話をすると、『仮面ライダーBLACK SUN』は北九州がモデルの作品でヒーロー(?)をやったことのある人vsヒールをやったことのある人という構図になるんだな。あと始まりは『カリスマ』のセルフオマージュな気はする。