「ディストラクション・ベイビーズ」
"暴力はいけない"
道徳の授業を始めるのではなく、これは僕らが、ずっと昔から刷り込まれてきた教育論。
例えば覚せい剤は、ドーパミン(脳内の快楽物質)が100倍以上分泌されると言う。
つまり、最高に気持ち良いから、ダメ。
それは、暴力にも近いものがあると思う。
なぜなら、暴力はこの世界で最もシンプルで説得力のある、美しく、快楽さえはらんでいる自己表現の手段だから。
だめだ、と教育しなくては、暴力に頼り暴力が支配する、ディストピアな世界が簡単に出来上がってしまうからじゃないか?
(まぁその分、言葉の暴力がどんどん鋭くなっているけれど)
過去に2度、この映画のように街中で人に絡まれて、ボロボロになるような理不尽な暴力を体験したコトがあるけれど、彼らがもっともらしい言葉を浴びせかけながら、僕の顔面を蹴る前の恍惚な表情は今で忘れられない。もちろん、僕が生意気なのがいけないのだけど。
この映画を観ながら、再確認した。
意味のないただの暴力、ルールに縛られない暴力、勝ち負けを超えた暴力、正しさも悪もない暴力というのは、本当に力強くて美しい。
"THE OUTSIDER"という格闘技団体をご存知だろうか?前田日明が主催する、いわゆるゴロツキや不良、アマチュアやセミプロがリングの中で戦う総合格闘技団体。
僕はこの団体が大嫌いだ。
ゴミクズどもの暴力に、意味を与え、ルールを課し、勝敗を振り分け、あまつさえ更生させているから。
人を壊したいという衝動を抑えられないクズに、意味を与える必要はないし、ルールや勝敗を課して、スポーツのように昇華させる価値は、こいつらにはないのだ。
もしこの映画の主役、柳楽優弥演じる泰良がそんなつまらない世界に押し込まれたら、と思うと、本当に退屈だと思う、吐き気さえする。
泰良は、暴力で得る勝ち負けやその他の瞬間的な快楽ではなく、暴力がもつ暴力それ自体の魅力に、純粋に惚れ込んでいるだけなのだと思う。
僕は、この映画が終わってほしくなかった。
意味もなく、"3回戦うって決めとんじゃ"という泰良が、どこまでいけるか観ていたかった。
だから、ルール(限界)や意味(自己顕示欲や金銭欲・性欲)をもたらした、もたらそうとした、菅田将暉演じる裕也が邪魔くさくて仕方なかった。
裕也は、僕たち一般人の生き写し。
暴力の瞬間的な快楽を外野から楽しんで、自分も強くなった気でいるだけの犬に過ぎない。
「アウトレイジ」や「クローズ」を観た後、デカイ気持ちになっているような奴。
不利な立場からは"暴力反対"という姿勢でありながら、力を手にした瞬間に好戦的になり"暴力"を振り回す。
でも、彼にとって大切なものは、本当の力ではなく、"力を持った立場"なのだ。
そんな人間は、泰良や那奈からしたら、
"いけるところまでいけない"
人間のクズなのだ。
そんなやつは、ドアに挟まれて死ねばいい。
これは、「FAKE」にもつながるが、テレビで叩かれてる人間を、一緒になって叩いてる人も同じだと思う。
泰良がボコボコにしてくれると思っていたけど、もっと悲惨な目にあってくれて本当によかった。そして、それを体現した菅田将暉は素晴らしい。小松菜奈も「バクマン。」「渇き。」と僕の嫌いな映画監督に使われてる人だけど、今回でベストアクトを見た気がする。
何より、柳楽優弥の
「こいつに関わりたくない」
と思わせる存在感は半端ない。
「クローズ EXPLODE」は僕のフェイバリット映画であるけれど、同じ百獣の王的役柄を演じた柳楽優弥の存在感は、山田孝之のそれとはまた違った凄味を感じずにはいられない。
ちなみに、「闇金ウシジマくん」では、金属バット一閃で、山田孝之の勝ちである。
不快
狂人
DQN
どう呼称してもかまわないが、これは目の前にゴロンところがってるような、そんな話。僕にとっての暴力の存在そのものと同じだ。
最後、こちらに向かってくる泰良は、
暴力の瞬間的な快感やボコボコで得ることのできる安易なものに感化された、裕也のようなアホに向かっているともとれるし、なんなら自分とは関係ないと線引きをし、安全圏にいるつもりになって鑑賞している我々にも向かってきているのだろう。
仮に僕が泰良に目を付けられたら?
僕が初めてボコボコにされた15歳の時、実家の夕飯は赤飯がでた。
"目を付けられるような男になった"
という、両親からのお祝いだった。
ゴミクズどもは、美しい暴力の種を蒔き、血で血を洗うような花を咲かせながら、その暴力で散っていくべきだと思う。
泰良がいけるところまでいく姿をもっと観ていたかった。
でももし、目の前に着たら、
走って逃げろ!
とても気持ちのいい、痛くて美しい愚かな映画でした。