にく

獣の血のにくのレビュー・感想・評価

獣の血(1949年製作の映画)
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G・バタイユ『ドキュマン』(二見書房、1974年)届く。20年代末のシュールレアリスム運動と「屠畜」の関係を量るには必読の雑誌の抄訳。屠場の不可視化を激しく批判するバタイユの姿勢は後にジョルジュ・フランジュ『獣の血』、ギャスパー・ノエ『カルネ』/『カノン』他に重大な影響を与える。

国立新美術館「シュルレアリスム展」にエリ・ロタールが撮ったラ・ヴィレット屠場の写真(1929年)も来ているらしい。この屠場は1867年、パリ北東部郊外に他の屠場を統合しつつ作られた(~1974年)。ロタールの写真はバタイユが編集した雑誌『ドキュマン』(第6号)に掲載されたものだ。
バタイユは「辞書」と題した記事の中に「屠場 abattoir 」の項目を立てる。「今日では屠場は呪われたものとされ、コレラに汚染された船さながらに隔離されている。この呪いの犠牲者は肉屋や動物たちではなく、ついに自分らの醜さだけしか耐えられなくなってしまった御立派な人たちなのだ」。
以上はJ・バタイユ著・片山正樹訳『ドキュマン』、二見書房、1974年、81頁の訳文に手を加えたもの。牛・羊の屠場はナポレオン3世治下に統合、郊外化されて都市生活者の目に触れることがなくなった。ここでバタイユは読者に屠畜行為の儀式性を再確認させようとしているのだ。
私はポンピドゥー・センターで2009年に開催された“La subversion des images”(イメージの転覆)展でロタールの連作「ラ・ヴィレット屠場」を見た(そのときなかったものも今回来ているかも)。当然ながら、G・フランジュの『獣の血』はこれら写真の影響を受けている。

『ヴィジュアル・クリティシズム』所収、藤井仁子「滅多にない花のように」読了。クラカウアーの理論をアウシュヴィッツ前/後に分け、後者における「映画=鏡」の比ゆを社会反映論から「救済」する。『獣の血』が屠畜でなくそれを隠蔽する「日常」の恐怖を掬っているとの指摘に共感。

早稲田大学戸山校舎で開催された、アニェス・ピエロン講演会「グラン=ギニョル―ベル・エポックの恐怖劇場」に行ってきた。ピエロン氏はロベール・ラフォンから出ているグラン・ギニョル戯曲集の編者で近代演劇の専門家。通訳はつい先日『グラン=ギニョル傑作選』を出した南山大学教授、真野倫平氏。
講演は、パリ・グラン・ギニョル座の誕生前史、盛衰譚、そこに居合わせた人々(劇場主、作家、役者、ポスター画家)にまつわるエピソードを中心に構成された。加えて、この出し物を成立させた「場」としての劇場についても言及がなされ、さらにはフロアの質問に答えるかたちで映画との関係が語られた。
グラン・ギニョルは、ブレヒトのような「距離 distance 」の演劇とは対極にある、「フュージョン fusion 」の、即ち身体間の距離を無化する演劇だった。舞台上の身体のみならず、これを享受する観客の身体も異性との間で距離を縮める。グラン・ギニョル座はナンパ場でもあったのだ。
ほぼ同時代に誕生したグラン・ギニョルと映画とは、非常に近しい関係にあった。例えば、顔から飛び出るほど目を見開くなど、両者の演技は同じやり方で誇張されていた。無声映画期の表現主義的な演技のように。実際、ルイーズ・ブルックスの演技は、グラン・ギニョル座の人気女優マクサに影響を与えた。
最も興味深かったのは、グラン・ギニョル座の血糊には、パリ郊外のラ・ヴィレット屠場で採取された「牛の血」が使われていたという話だ。ピエロン氏はご存知だったのだろうか。G・フランジュがグラン・ギニョルに翻案された『顔のない眼』を撮る前、『獣の血』で上記屠場をカメラに収めていた事実を。
以上、ピェロン氏講演の私的抄録でした。
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