濱口竜介が『他なる映画と』で以下のようなことを書いている。
「顔を撮ることによって劇映画アメリカ映画が発展した。つまり映画における芝居とはカメラに顔を向ける、カメラを意識することが前提としてあるが、芝居からその意識をはぎ取るという映画の存在条件に挑んだ狂人が映画史において溝口、相米、カサヴェテスといる。」
この前二者と同じようにヤンチョーの映画も長回しだが、匿名的な人物たちの劇映画を撮るという無謀な試みをする彼も、ここに名前を連ねられるのではないか。
講義では本作は「映画・フレームの外で起こってる全体の、様々な一部を切り取ったような映画」と評されてたが、つまりカメラではなく、「全体」が前提であるという点では、同じようにカメラが疎外されてると言える。
長回しの中のミドルショットによって「顔を撮る=劇映画」に接近するわけだが、それもスターの顔を使うことでかろうじて成り立っているのだろう。
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