シロちゃん

ブルックリン最終出口のシロちゃんのネタバレレビュー・内容・結末

ブルックリン最終出口(1989年製作の映画)
5.0

このレビューはネタバレを含みます

元旦の夜明け前に1989年のアメリカ・西ドイツ映画の『ブルックリン最終出口(原題:Last Exit to Brooklyn)』を観た。

原作は「レクイエム・フォー・ドリーム」で有名なヒューバート・セルビー・ジュニア(Hubert Selby, Jr)の同名小説。
1964年の出版以来、性と暴力の描写の苛烈さで話題を呼び、バージェスらに激賞された大ベストセラー。

監督は「クリスチーネ・F」のウルリッヒ・エーデル(Ulrich Edel)監督。

この映画は想像以上のわたし好みの傑作な映画であった。

なんで観たのかというとわたしの好きな女優のジェニファー・ジェイソン・リー(Jennifer Jason Leigh)が輪姦に合う衝撃的作品と言われていたので、それだけでこれは是非観たいと前から想っていて観ました。

1952年、ニューヨーク州ブルックリン85番街。

米国中が戦争の勝利に沸きあがるなか、ブルックリンの住民たちは不況に苦しみストライキを続け、町中は性と暴力、ドラッグとアルコール、人間の欲望の暴走に出口の見つからない崩壊寸前の掃き溜めの町と成り果てていた。

そんな町で人間が人間と生きてゆくことの恐怖や切実な日々を痛烈なユーモアを痛ましく漂わせながらも淡々と描いてゆく。

原作者のヒューバート・セルビー・ジュニアはブルックリン出身で当時結核で片肺を切除し、喘息に苦しみ、ホームレスをしながら「ブルックリン最終出口」を書いたという。

まず、役者がみんな素晴らしかった。この映画を観て不快な気分や人間の醜さや絶望的なものを感じたという評価が多かったが、わたしはむしろ爽快な感覚でずっと観ることができた。

それが良いのか、どうなのかと言われると、わたしはそう感じさせるこの作品は凄く優れた作品であると感じた。

悲しく痛ましいシーンが多いこの映画が何故そんなに最後まで清々しい映画であるのかというと、人間を素直に正直に描くことで、醜さや絶望を超えるものを表現できるのではないかと感じたのだが、それだけではなく、創り手の人間に対する愛情、人間を見る目が深いからなのかもしれない。

絶望のどん底に「ほんのすこしの救い(希望)」が観える作品ではなく、この映画の始まりから最後までの人間たちの必死な有様こそが、すべて人間が生きることの本当の救いであるのだとわたしは感じたのであった。

しかし面白いのが、本当の救いがしっかりと描けているにも関わらず、この映画に出てくる人間たちの出口とは果たしてどこにあるのかと感じる映画なのである。

なんでかっていうと、この不況で性や暴力、ドラッグやアルコールの溢れかえるモラル崩壊寸前的な町って、今の時代にもどこにでもあるというか、日本もほとんどの人間たちが”職場”という出口の見えない場所に一体いつまで働き続けなくてはならないのかという絶望的な気持ちでいるように想えるし、ネットを開けば性や暴力で溢れ返っているし、ドラッグを求めて精神科はいつでも予約待ちの状態です。

むしろ、それらをみんなが想う存分発散できない日々を送り続けているほうが出口は遠いんじゃないかと感じたのです。
遣りたいことを遣り尽せば、あとはもう底の底まで堕ちていくわけじゃないですか。
その絶望感というものが、不十分である状態ほど、ある意味本当に持続し続けるこの映画以上の絶望的な状態なのではないかと。

そうすると、この映画の荒廃したどこまでも自暴自棄に陥り自らを破壊せしめようとせずにはおれないような人間たちの姿っていうのは、わたしたちの未来の姿であるんじゃないのかと想うのです。

そこにある苦しみを、発散しないでは生きていけないほど限界に来ている人たちっていうのは、なんとか抑えこんで生きていけている人たちがこのまま行くと、こうなるのではないのかという一つの未来予想的な映画が、この映画であると感じるんです。

それは団体ではなく、個人を見れば、大体がそうなってしまうということがわかると想うんですが、発散も暴力(殺さない程度の)などのモラル崩壊もできなくなったところにあるものと言えば、それこそ最悪なひとつは”自殺”であるし、”殺人”でもあります。
それもできなければ閉鎖病棟に送り込まれたりする。

でもこのブルックリン85番街は人と人の粗暴さに、それほど違いが見えないんですよね。
暴力を受けるほうもほとんどは粗暴で非があるような人たちばかりです。

ドラッグや酒に溺れ続けて生きることも社会のなかで生きる人間として危険なので”非”として忌み嫌われる存在であるのは致し方ないことです。

だからこの映画はむごい暴力や性に乱れた野蛮な人たちと、そうではない人たちに”差別(区別)”というものをほぼ感じられなかったし、純真に生きているはずであろう少年でさえもが、この粗野な部族の一員として上手く融け込んで同化しているように観えたのです。

だから善と悪の区別がまったくできない世界と言える。
賢い猿と賢くない猿はおるにはおるが、でもぼくたちって全員猿だよね。そうだな、みたいな諦念が在る清らかな世界なのです。

この遣り切れない時代と場所に生きるみじめな俺たちというどこか強い仲間意識が伝わってきて、それが彼らを救っているとも感じられる。

つまり、この町に生きる人たちすべてが、赤ちゃんから老人まで、巨大な家族のような、相手の責任は自分の責任であると互いに暗黙の了解の上に成り立っているような社会として存在しているように想えたのです。

だからこそ、この映画が最初から最後までわたしに爽快感を与え続ける映画であったのかもしれない。

この映画が描いたものというのは、過去にあった状態でもディストピアでもなく、むしろ現代のどん詰まり的な状態から出口へ向かって進むには、まずは”ここに”行く必要が在るといった理想の未来の状態であるんじゃないのかと。

みんながみんな大して変わらないくらいに傷つき合っている、互いにいっぱいいっぱいである世界っていうのは、例え暴力や乱暴ごとなどがあっても理想の状態のように想えたわけだす。
生きることの切実さに欠けるなら理想(平和的な)を強く追い求め続けることもできない。

どん底(どの時代にも在る現実)の最終出口を見つけだすには、とにかく堕ちることのできるところまで堕ち続けなくてはならないということを描いてるんじゃないかなあと想った次第です。

で、この映画が未来の理想な状態で、本物の現代の現実っていうのは、「レクイエム・フォー・ドリーム」のほうで原作者は描いているのかどうか?近いうちに「レクイエム・フォー・ドリーム」を早く観たいと想っています。

(追記:トララが輪姦されるシーンですが、彼女は見知った町の連中に姦されて輪姦(まわ)されるわけですが、妙に家族愛とは言いませんが、変な互いの同族愛みたいなものを感じて不快さの起きなかったのは、これは、どうなんだ、っていう・・・輪姦シーンに同族愛を感じるわたしって、大丈夫なのか笑 まあそんな珍しい感覚を感じさせられる稀有な作品であることは確かでした。)

☆出演者やシーンに対するレビュー

✫ジョージェット役に実際にトランスジェンダーであるアレクシス・アークエットが演じています。
身体は男性ですが心が女性であった彼女は惜しくも2016年の9月にこの世を去っていることを知りました。
とてもセクシーで、これは演技でなく本物のセクシーさだなと魅了されました。苦しんでいる人ほど本当にセクシーなんです。

✫レジーナ役のZETTEもすごくセクシーなゲイを演じていました。
レジーナに本気で惚れ込んでしまうハリー役のスティーヴン・ラングもすごく良かった。
プライドの高そうな彼だからこそ演じられる哀れで惨めな人間の弱さというものが悲しくも美しく感じました。

✫スプーク(キャメロン・ジョアン)少年と売春婦トララ。
切ない純愛が織り込まれているのですが、なんでしょうねこの映画の純愛さって、あまりに渾身的というか、蓮っ葉な母親に求める息子の愛情みたいな。

✫戦場へ向かう兵士を騙して金を盗む売春婦のトララ役をジェニファー・ジェイソン・リーが演じています。
彼女はほんとはとてもうぶな女性だと想うので、男を騙そうが厭味がない。
しかも彼女は賢い売春婦であり、それを分る男性が現れるわけですが。賢い女が身体を売るのは相当の理由があるんだと想うから、誠実な男がそんな深いわけの在る売春婦にぐっと来るのはわかる。
しかしそんなトララと寝るまえに飲んだ暮れてる兵士は、これから戦場へ向かうという恐怖と悲しみを、売春婦と寝ることで誤魔化すことすらできないと言わんばかりにダウンする。(でも実はトララが薬を飲ませたのかも?)
なんにしろ、人をこれから殺す為に戦地へ赴く兵士のストレスとは一体どれほどのストレスなのか。

✫そしてわたしを一番感動させたスティーヴ少尉(Frank Military フランク・ミリタリー)です。
彼の微妙な表情の演技が本当に素晴らしかった。引き攣らせながらはにかむ表情とか、なかなかこの精妙な表情はそうそうできるもんではないんじゃないかと。
真面目で誠実でインテリ系の少尉とさばさばした、でも傷つきやすい繊細で強気な売女(ばいた)の純愛とか、たまりませんな。
彼は脚本家らしいが、俳優の才能もある。彼はトララを売春婦としては見なかった。
戦地へ出征するまえに彼がトララと出会ったことは、喜びより、むしろ未練を強くするたまらない悲しみであったと想います。
シロちゃん

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