てぃだ

コンカッションのてぃだのネタバレレビュー・内容・結末

コンカッション(2015年製作の映画)
4.0

このレビューはネタバレを含みます

 映画館で映画を見るとき何が一番悲しいって、客が自分だけの時である。こういう時、「ラッキー!」って思う人もいるらしい。気持ちは分かる。他の客には正直イライラさせられることの方が多い。上映中おしゃべりに熱心なおばさんや自宅でのイチャイチャ夕食タイムなカップル、前の座席を何度も蹴る客、前の座席に足を乗っける客、携帯を鳴らす客、映画泥棒中なのかLINEを打っているのか分からんが携帯の画面がずっと明るいままの客、ポップコーンをこぼしても謝らない客、何度も何度もトイレに走る客。言葉は悪いが「死ね!」なんて悪態をつきたくなることも少なくない。が、やっぱり映画館で映画を見る意義というのは不特定多数の人たちと同じ時間を共有することにあると思う。とあるミュージシャンのライブで、客が自分だけなんて状態で「嬉しい!最高」なんて思う客がいるだろうか。あんまいないだろう。むしろ「このミュージシャン人気ねえの?大丈夫か?」と心配になるはず。ライブは「このアーティストに人生を支えられてるのって、自分だけじゃないんだ!」ってことを実感できる。だから人はライブを愛するのではないのか。もちろん中には一人で見たい映画もあるけど、一人で見るならわざわざ映画館に来ないで家でDVDを見た方がいい。それに自分一人だけが客だと、自分のためだけにこの映画を流してくれてる映画館の人に悪い気さえする。





 年に100回ぐらい映画館に通うようになると、客が自分だけ、という状況に出くわすことが珍しくない。本作で久々にそういう状況に僕は陥った。というわけでじゃあ「つまんないのか」と一瞬不安になった『コンカッション』だけど、いや、滅茶苦茶面白いじゃんこれ。ウィル・スミスというスター主演で日本人が割と好きな「実話もの」に関わらず、しかも平日でなく休日の映画館で客が僕一人?何でこんなに客がいないのか。『ハリポタ』の新作やのん主演のアニメに客を取られたのか、それとも本作の宣伝があんまり上手くいってないのか。





 とりあえずざっとストーリー。アメリカのとある医師(スミス)が主人公。かつてスターだったプロアメフト選手の不可思議な遺体を検視することになった彼は、CTEという新疾患を発見する。これ、簡単に言うとアメフトのタックルの衝撃が年月を経て積もりに積もって脳に障害が現れる、という病。ところがアメフトというスポーツは野球と並んでアメリカ人の血と呼んでもいい国民的スポーツ。アメフト協会(NFL)やアメフト好きなアメリカ人にとっては、「アメフトをすると死ぬからやめておけ。禁止しろ」というも同然の宣戦布告である。本人はいたってマジメ一筋で、純粋なる仕事や科学的研究のためにこの説を発表したにすぎない(脚色はあるだろうが少なくとも本作を見ている限りでは)。ところが、NFLという巨大権威を敵に回した彼の苦難の日々が始まる・・といった人間ドラマである。





 とここまで見ると、何となく本作が客を呼べてない理由が分かる気がする。たぶん「スポーツをハナから否定する映画に見える」からではないかと思う。そもそも映画に限らず、スポーツを否定するようなことを人々は嫌う傾向にある。人々はスポーツやアスリートを神聖化しがちだ。時には宗教かと思えるぐらい美化する。それこそメディアや国や地域までこぞってスポーツやアスリートの生き様を称える。何でそこまでスポーツが美化されるのか。簡単、「人々に感動と希望を与えるから」だ。ところが「人々に希望を与えよう」とハナから思ってアスリートになる人間なんているだろうか。大抵は「ただ自分が好きなことをひたすら一生懸命に打ち込んでいたらいつの間にか選手になっていた」という人の方が多いのではないかと思う。ところが、これがスポーツでなくアニメやフィギュアなどのオタクになると話は別だ。彼らだってただ自分が好きなことをひたすら一生懸命に打ち込んでいただけのはず、なのに人々からありがたがられることはない。むしろ「キモイ、社会の害虫」扱いすらする人間がいる、何この温度差。そういうオタクが何か犯罪を犯すと「アニメとか暴力的な映画を好きな人間だったからだ」などその因果関係をでっちあげて強調し批判しようとする。ところがアスリートが麻薬所持などで捕まると人々は割と寛容だ。何この温度差。どんだけ神聖化されてんのスポーツ選手。と僕は思う。





 そういう人からすると、確かにこれはスポーツを批判する映画に見えるのかもしれない。例えばもし中国人の学者が「相撲は病気につながりやすい」なんて論文を発表・・なんかしちゃったらすぐさま批判する人がでるだろう。核心をすり替えて「反日野郎の戯言」なんて言い出す人間も出てくるだろう。それと同じであろうことが本作では起きる。主人公は実は純粋なアメリカ人ではない。ナイジェリアのとある部族出身で、出身大学もハーバードやイェールなんていう超一流ではない無名の一医師である。そして特にアメフトのファンでもない、どころかルールすら始めはろくに知らない。批判する人間はそういったとこを突いてくる。これがもし純粋なアメリカ国籍を持つ人間で、ハーバードを卒業したアメフト協会の関係者とかなら話は全然違ったはず。アメフトに生涯の重きを置いている人間からすれば選手の命よりもアメフトのイメージを守ることの方が大事で、話すらまともに聞いてもらえない。このあたり、スポーツを信奉することが時に宗教並みの脅威を発揮するということをまざまざと教えてくれる。





 アメリカはよく「自由の国」と称されるけれど、これは単なる「自由」ではなく「自由主義の国」という意味だ。要するに「国家や権威から干渉されることはないですよ、そういう意味で国民は何をしてもいいですよ。」という意味。これは言い換えれば「国家や権力に逆らったり歯向かわない限り」は何をしてもいいという意味にすぎない。その「自由」の恐ろしさが本作はよく描かれていると思う。本作の中で、スミスが妊娠中の妻のお腹に耳を当て、胎児に話かける場面がある。「父ちゃんは今すごくつらい目にあってる。お前が生まれてくる世界はもしかしたら生きにくい世の中かもしれない」。正しいことが正しいとされない、アメリカ人として認められたくて一生懸命まごころを込めて働いた一人の無名の人間にすらアメリカという国はこんなにも冷たく牙をむく。大統領が変わった今、この国は今後どんな方向に舵を切るのか。恐ろしい悪寒さえ覚える。
てぃだ

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