一週間という区切りは、社会的で恣意的なものでありながら、現代のわれわれには非常に基礎的なリズムとなって体に刻み込まれたものになっている。一週間の間には変わらない日常と、その中で微妙に変化していく出来事がある。この映画の中では、友人の失恋と絶望・再生、バスの故障、小さな詩人との出会い、秘密のノートが破られること…
それらは積もっていくものである。積もっていくものは人を変えたり疲れさせたりする。特に、恋人によって家の中がどんどん白と黒に埋められていくのを見るのは、愛する人であるにもかかわらず、この人が自分の未来を消費しているように見えるものである。そこには焦りが感じられる。滝は、水曜日くらいには焦りの水流に見えなくもない。
ノートがなくなってしまうこと、日本人の詩人に新たなノートをもらうことは、全く新たな日々の始まりであり、リセットであった。人はこのように一週間を生きている。積み上げと行き詰まり、清算。
この映画のアダム・ドライバーは、もしかしたら最も起伏のない顔をしているかもしれない。シワとかが全くない。普段の彼にある何か思い詰めたような感じがなく、その点は映画にマッチしていた。とはいえ、もう少し何か刻み込まれた顔をしていても良かったかもしれない。あるいは「ハングリー・ハーツ」でこのくらいの純朴さが出せていたら良かったのかもしれない。