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オルメイヤーの阿房宮のCHEBUNBUNのレビュー・感想・評価

オルメイヤーの阿房宮(2011年製作の映画)
4.8
【アケルマンが見出した闇の奥は蒼かった】
MUBIライブラリにシャンタル・アケルマンの隠れた傑作と名高い『オルメイヤーの阿房宮』が配信されていました。本作は、『地獄の黙示録』の原作である『闇の奥』を書いたジョゼフ・コンラッドの同名小説の映画化である。シャンタル・アケルマンはプルーストの『失われた時を求めて』を『囚われの女』の中で、プルーストが持つ窓の役割をモノにし見事な換骨奪胎を魅せた。『失われた時を求めて』では、《見る》行為により移ろいゆく感情を盛り上げる舞台装置として絵画と窓が使われているのだが、特に後者の使い方が鋭く、街中をサロンに見立て、窓から見える世界を絵画のように覗きこむ場面がある。覗きによって生じる、恋情や渇望というものをアケルマンはガラス越しの対話に反映させてみたり、ストーカーを通じて《覗く》行為を際立たせる超絶技巧で魅せてくれた。

そんな彼女がコンラッドの世界をどう描くのか、これは非常に興味深い話題である。

東南アジアのビアガーデン。安っぽい場所で、安っぽいバンドが、甘ったるい曲を歌っている。一人の男が中に入り、不自然なところで立ち止まり、ステージを凝視している。すると、突然ナイフを持った男が歌手を殺してしまう。しかしながら、会場には悲鳴は出てこない。そして一人だけバックコーラスは踊り続けるのだ。

「死んでるよ」と。

言われても踊り続ける彼女は遂に歌い始めた。そして男の目的はこの女=ニーナだ。これはオルメイヤーの娘ニーナに対する渇望を描いた作品なのだ。独白に近い形で、オルメイヤーの回想が始まる。彼は東南アジアの奥地に、まるでカーツ大佐のように現地人を従えて暮らしている。彼は、娘とヨーロッパを歩みたいという夢があった。白人であれどももはや西洋の空気は遠い世界。そこへの渇望を潤そうと、娘を外国人学校へ入れるのだが、彼女は父親の狂気の溺愛に反発するように迷える子羊として、アジアの街を放浪し《誰にも頼らない》精神で彷徨っていた。そして、その道中で出会った男の子と恋に落ちる。

本作は、『闇の奥』の対にあたる作品といえる。

誰も知らない世界で阿房宮を創り上げたオルメイヤーが、風が、水が囁く神秘的な空間で娘という他者に自分を注ぎ込もうとするのだが、ハーフである彼女は親子関係、そしてフワフワして得体の知れないアイデンティティにまつわる嫌悪から父に反発する。そして朽ちていく父と、彷徨える娘の離散収斂の波打ちによって、子離れによる精神の死を美しく描いていっている。

追う父と、逃げる娘の関係性を特徴付ける場面が前半にある。それは『マッドマックス/怒りのデス・ロード』ばりに、「私はものじゃない」と逃走するニーナとそれを追うオルメイヤーを描いた場面だ。横移動で、草むらをズンズン掻き分けていく父。そしてカサカサとすばしっこく逃げていくニーナ。そして1日に及ぶ逃走劇は暗夜に放射状の水の輪の中で終わりを告げる。不意打ちな逃走劇で始まる本作は、クライマックスにおける直接対峙の別れで決着がつく。まるでこの世のものとは言えない風景、「おめでとう」とみんなが言いそうな風景で別れを告げ、オルメイヤーはその記憶を反芻することで、ニーナの残り香を堪能する。

よくよく考えたら気持ち悪い内容なのに、こうも美しい。

これぞアケルマンの覗きフェチの美学だなと感じました。
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