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北斎のニューランドのレビュー・感想・評価

北斎(1955年製作の映画)
3.5
☑️『北斎』及び『いけばな』『いのちー蒼風の彫刻』『動く彫刻 シャン·ティングリー』/『東京1958』『白い朝』『1日240時間』/『新·座頭市Ⅲ(26話)夢の旅』『われらの主役 勝新太郎』▶️▶️
勅使河原宏という監督についても、あまり関心は抱いて来なかった。大きな本業がある人の、片手間仕事では、と軽視してきた。確かに『砂の女』は、’70年代になって遅れて『東京物語』『浮雲』『残菊物語』らが広範に上映されるようになる以前、’60年代迄は『七人の侍』『雨月物語』と並んで世界どこからでも絶賛の数少ない日本映画だったし、それに値する完璧な造型·テーマをもつ大傑作なのは私でもわかる。しかし、他の傑作『落とし穴』『他人の顔』も含め、安部公房作品のイメージの方が強い。それくらい、リアルタイムに近く観てきた’70年代以降のこの作家の作品は観れた範囲では凡庸だった。それなら、安部と組む前のこの作家の実力を観てみようと、短編集に当たる。
❮短編集1❯は初期の、長編に乗り出す前のもの中心。着実·的確·大胆·真っ当で確かに素晴らしい作品の力も感じるが、作家の実力というより対象の表現物の底力の部分が大きい。期待してた前衛性は程々。
『北斎』モノクロ16ミリ粗めのズーム·パン·横移動·接写ゆえ、画家の息づかいレベルが立ち上がってくる。師や家族、作風と時代、暮しと社会との緊張感を、静止画の本質を映画リズム·筆致で解き明かしながら、紹介·分析してゆく。「あらゆる画法·科学医学を学び、西洋に先駆け近代的。武士の堅さや、享楽本位風潮にも反し、庶民の労働や肉体·戯画、らを描き、望んでの貧しさ·長命得ての果てない歩みを」
『いけばな』武家文化堅苦しさから脱し·庶民に自由に入り込んでいった、生け花の歴史と現在の一般講座から丁寧に入る。しかし、作風は自由さ·広さを増し、より何にでも題材·材料へ手を伸ばし、時に金属·木の幹を使うも躊躇わず。銀閣や龍安寺の巨大な庭の、立体へも繋がる。抽象へもぐんぐん入る。浜辺の立体像の穴越し抽象合成図の映像へも。精神の生命と、それに対しての感慨の形象化。身内大物(父)の登場。
『いのち~』その父の威風。巨大に造り運び並べ、「植物に動物の命の狂い·叫び」を感じて、表してく。無機物も組み合わされ固められて、様々な自由·堅固な表現の埋め付くし、駆けつけるに迷わないファン支持層に、相互刺激しあう。圧巻の、現実を踏んだ作家宇宙と、その周辺·成立ちを押さえてく。
『動く彫刻~』廃品の再び生命獲得、元の意味合いを変えての躍動し直し。集め組んでの新しい形·呼吸。来日著名彫刻家への、滞在2週間の密着·リンク共生の形を着実·いきいきと、綴り同化してゆく。
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❮短編集2❯。安部公房も含む、様々な識者·作家の現代性に任せた内容より、躍動感溢るる呼吸·リズム·トンガリに集中·楽しんだ中期の短編集3本。
『東京~』カラーを時折折り込み、外国人向けのナレーションも入っての、取分け浮世絵の江戸時代の顔·歩列を現代の、交通·人混み、政治や神技、化粧やテレビ渦、らの図に介入させ、部分にはめ込み、OLもさせ、グロテスクかつ活力が何処から来るのか、不思議な敢えてまごつく外人視点もいれての、日本現代綜覧·紹介作。
『白い朝』。工場らで働く若者男女の朝から夜·夜明け夜遊び迄の、実感語り、集合離散、らを描いて、角度の90°変や切返しが、ネチッコイ程にフィット·溶け込み合った作品で、顔·不可思議視界·反応·行動·笑み·はしゃぎの、本当に1から作り上げた、密度·完成度が圧巻。一応似てて、ドラマではあり得ないカッティング·リズム·(内的)速度。
『1日~』1~4面スクリーンを、繋げ、囲み、彩らせ、一図の中でも様々にサイズ·角度·リズムを変化させ、恒に躍動してく、科学·文明にフィット·批評の作。画面自体も位置や性格をぐんぐん変えて、新薬の実験·材料越境獲得らの、簡単なドラマ性も持つ、様々なモダン·ダンス·ミュージカル。いきいき楽しいが才気煥発まではいかない。
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映画界から少し離れていた頃の、自由闊達のTV作品も。『夢の旅』。’70年代物末の、伝説のTV版『座頭市』100本の掉尾を飾る、TVの枠を超える前衛的な勅使河原演出2本。放送当時は1度TVを捨ててた頃(買い直さず)で、噂だけ聞いてたかな? 随分遅れて観た時は、魅了されたが、放映プリントの褪色·劣化は酷かった。
改善なったかと最終話の方を観る。目を見張るとは云えないが、若干はクリアになっていた。市が目あきとなって抗争·力量比べと無縁に、意識下の美とおののきの世界をさ迷う、前半のメイン部分はやはり素晴らしい。只、夢を観てる現実の姿挿入や、夢自体も身体の欠損や戦闘·殺傷能力にリンク·派生してくる後半は、やや平凡。
望遠(ロー)、埃や炊煙、の上にカッチリ丁寧な街道·飯屋描写から、スヌケの竹格子壁を背にしての寝入りからキッチリ入る。
開いた目がメイク·強調され、盲だけ·いや市だけの·固有の内なる視覚·認識·発見·おののきに、終始する前半の、夢のなかの世界主体。女との絡みのその乳首·肌の接写での橙や青の泥的被せ処理、顔も入っての周囲世界のネガ反転·ボカシ原色浸食·絵の具渦巻き流れ等の世界、大望遠で川船行く手前の草や·すすき原全体や·桜の満開で垂れた枝囲み包みの異常な巨大感、ポツン一軒の銀箔お堂の内外で売り物として掛けられてる豪華絢爛な女物着物の入手·着衣、細く急勾配の家屋内通路の逃げ追跡のフォローupdownスピード収束感、其処から見えるそこを囲む世界の大波、それは市死体を偽と見破る勝二役の総髪御大尽のバックの間を占める巨大柳(幾日か経って、数年前録画のディスクで観たら瀑布でした)に通ず、画面の一分端々の緑野の美しさ、宿の風呂内でのCUに近づきカメラも寄る·白め艶っぽいメイク中年男らの存在と肝いりとする同性愛内在、湯から立上がると女体の 乳房持ちも。それらの各々の完成度·豊かさ·自由度、相互の飛躍の邪気、総体の稀なる夢幻で堅い核へ向かう世界。
後半は、チャンバラ技術の半トリックの優劣争い、五体の欠損の恐怖~視覚の価値の劣化、が巧み·鮮やかだが外形能力の順位付けを顕わに出してきて(番組的キャラの要請?にはのって)、かなり普通発想に。
『われらの~』は、気負い見せたり·見栄を切るより、もぞもぞと「勅使さん(の演出家)を見てて、俺も近くやれるなかと」と、力抜き·内の自分への向い方を心得た勝の語りが、迫るより·寄り添ってくる、一応密着ドキュメンタリー。
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