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アトムとピース 瑠衣子 長崎の祈りの作品紹介

アトムとピース 瑠衣子 長崎の祈りのあらすじ

紛争が絶えない世界で核廃絶はいっこうに進まない。唯一の被爆国であり世界の核廃絶をリードするはずの日本は、史上最悪の福島の事故を起こし、それでも再び原発を動かそうとしている。「長崎を最後の被爆地に。」放射能の恐ろしさをいちばん知っていたはずの日本人が、なぜ福島の事故を起こしてしまったのか?そしてなぜ今も原発にこだわるのか?長崎の被爆3世の瑠衣子はこの疑問を胸に、福島・青森の原子力の平和利用の現場を旅する。 旅のなかで瑠衣子は、日本が大量のプルトニウムを保有していることを知る。長崎に落とされた原子爆弾「ファットマン」の原料となった、あのプルトニウムだ。いったいなぜ?やがて瑠衣子は、政治家たちが隠してきたある事実を知ることになる。長崎に生まれた者として、決して許せない事実を・・・。プロトニウムがつなぐ長崎・福島・青森、そしてアメリカ。瑠衣子の旅を追ったロードムービー。

アトムとピース 瑠衣子 長崎の祈りの監督

原題
製作年
2015年
製作国
日本
上映時間
94分

『アトムとピース 瑠衣子 長崎の祈り』に投稿された感想・評価

小

小の感想・評価

4.0
原子力発電をテーマにしたドキュメンタリー。福島の原発事故における官邸の様子を克明に描いた『太陽の蓋』を観て、これもと思い鑑賞。

長崎で生まれ生活する被ばく3世の若い女性が、福島原発事故後、原発を再稼働しようしていることに疑問を抱き、原発のことが知りたいと福島、青森を旅する。

福島の立ち入り制限区域と、青森の再処理施設、建設中の原子力発電所を訪れた彼女は、周辺に暮らす人々の想いや葛藤を感じる。

そして日本が原爆の材料、プルトニウムを大量に保有していることを知り、さらに原発政策の推進は「核の平和利用」という目的の裏に隠されたもう一つの目的があることが明かされ、驚愕する。

この「裏に隠された目的」が何かを示すことがこの映画の目玉。それを知った自分は「そもそも平和とは何なのか」と考え込んでしまった。

平和とは辞書によれば「戦争や紛争がなく、世の中がおだやかな状態にあること」。現在、アメリカをはじめとする各国が核兵器を保有することで核兵器の使用が躊躇される「核抑止」によって、戦争のない状態が実現しているということであれば、これは平和と呼ぶのであろうか。

考えてみれば明らかだけど、「核抑止」はお互いに銃を突きつけ合って身動きが取れないのと同じであり、何かのきっかけで崩れる可能性がある。また、世の中には捨て身で攻撃してくる人がいることからみても、国家がそうならないとは断言できない。

現実的に核兵器全廃は困難だと思うから、「核なき世界」を非現実的な理想論だという意見があることも理解できる。しかし、「核抑止による平和」という言葉はそもそも成立しないし、誤りではないか、と思う。

一方、原発はプルトニウムを新たに生む。プルトニウムは長崎に投下された原子爆弾の材料である。原発推進の隠された目的を知ると、「核の平和利用」という言葉にも、いかがわしさを感じざるを得ない。

既に明らかなように原発はひとたび事故が発生すれば、重大な状態を引き起こす。この映画では福島の原発事故は、もっと深刻な事態に陥っていたかもしれないことを菅直人元首相が語っている。

平和という言葉には安心というニュアンスがあると思う。隠された目的がなかったとしても、原発に対する現在の実感から乖離している。「核の平和利用」は「核の兵器以外の利用」などというべきではないのか。

個人的には原発の良し悪しを決めるだけの考えはまとまっていない。ただ、原発を使う場合は様々なメリットと同時に、万が一の場合、重大な事態を引き起こす可能性があることを承知しておくということが是非とも必要なのではないか。

と、思いながらも優柔不断に、自分なりの納得を出すことを先送りしてしまいそうな自分。そして、覚悟のないままに、状況を受け入れるだけの自分を想像してしまう自分。

子供など自分以外の大切な人を軸にすると考えはまとまりやすいのかもしれない。自分は子供にどんな社会をつなぎたいのだろう。豊かで便利な社会か、安全で安心な社会か。もちろん両方だと思うから、やはり短絡的に一方的な結論は出せないかもしれない。

映画で主人公の女性が、かつて原発政策を推進し、現役を引退した元官僚の男性と話すシーンがあった。上映後、挨拶に立った監督が、「話はかみ合っていないけど、お互いの立場を理解し、感情的にならずに話していた。こういう姿勢が(原発問題を考えていくうえで)必要だと思う」と述べていたけど、そうなのかもしれない。
第七藝術劇場にて鑑賞


注力点や焦点が定まっておらず、何をしたいのか訴えたいのかよくわからなかった。映画としてもかなり低品質だと思った。
酷く暴力的なものを見た
とても気分が悪い
これ以上述べることは無い
【追記】
とか言いつつ、「これ以上述べることは無い」では無責任だなと思い追記する
ラストシーン
ただの技術者に過ぎない、しかも既に老齢の伊原を的にして行われた対談
僕はあのシーンの醜さに吐き気すら催した
技術者だからといって完全に免責するものでは無いが、お話のオチで結局彼を立てて的にしてしまう野蛮さは既に猿に等しいと言って過言ではない
更にそれに続く桜にカメラを向けるシーン
アレが被災地福島の瓦礫にカメラを向ける姿と重なり、その事にも不気味さを覚えた
この不気味さは、2016年の5月に同じくカメラを携えて福島へ赴いた僕自身に対するものでもある
僕は未だに被災地に行ったことを深く後悔している
詳しく言語化することは難しいが、己の浅薄さがあの瞬間に詰まっていた
思い出すだけでも激しい自己嫌悪に陥る
本作にはその嫌悪や不気味さ、浅薄さへの無自覚が滲み出ている
特にそれが激しいのが桜と瓦礫にカメラを向けるあの2シーンだった
この映画のカメラは無自覚に暴力的で、僕はそれをはために見ているだけでも耐え難いほどの不快感を覚えた