毎日カップめん

ディストピア パンドラの少女の毎日カップめんのネタバレレビュー・内容・結末

4.0

このレビューはネタバレを含みます

● 「ランド・オブ・ザ・デッド」の「精神的・改変作品」!

多分、見る人によって良し悪しがハッキリ分かれる本作、「ディストピア パンドラの少女」。

筆者の勝手な意見では、

本作はゾンビ界の巨匠 ジョージ・A・ロメロの監督作品、「ランド・オブ・ザ・デッド」を上手く再解釈した「精神的・改変作品」と考えている。
筆者が本作に好意的なのは、それが理由である。


● じゃあ、「ランド・オブ・ザ・デッド」って、どんな映画?

2005年公開の「ランド・オブ・ザ・デッド」は、簡単にいって、

「ゾンビ禍が起こった近未来を舞台としたゾンビもの」なのだが、一番変わっているのは、

「意思を持ったゾンビ」が登場すること。

しかも、サル山のボス猿のような一個体が、「ゾンビの群れを率いて、人間と戦ったりする」のである。


この話を聞いた時点で、コアなゾンビ・ファンは、


「え~~!(落胆)」と思われたのではないか? 


安心して欲しい。筆者もそう思った一人である。

ロメロは元々、吸血鬼にヒントを得てゾンビを制作しており、故に元ネタのドラキュラのように意思を持った存在にしたいと考えていたようだ。
(この辺りは、前作「死霊のえじき」(Day of the Dead) でも描かれている)
映画の最後では、人間側がそのボス・ゾンビに対し、「──あれも一つの生命だ」的な発言をし、攻撃せず見逃すという終りになっている。


──ロメロよ、あなたのやりたい事は分かった。しかし、「超設定・超展開過ぎて、見ていてキツい」のだが…


正直なところ、これが「ランド・オブ・ザ・デッド」の偽らざる感想であったのだ。

さて、ここでようやく本題に移るが、筆者は本作「ディストピア パンドラの少女」こそ、

「ランド・オブ・ザ・デッド」のテーマと、その抱える問題点を上手く解決した作品だと考えているのである。




(以下、「パンドラの少女」の大幅なネタバレが始まります。ご注意下さい)




● ゾンビには二種類のゾンビが居る!

映画をご覧になった人ならご存じのことと思うが、「パンドラの少女」には二種類のゾンビが登場する。


一つは、「ハングリーズ」と呼ばれる、いわゆる「いつものゾンビ」。

そして二つ目が、主人公の少女に代表される「意思を持ったゾンビ」である。

補足すると、主人公の「メラニー」はハングリーズに噛まれた妊婦から生まれたハイブリッドであり、人間の唾や体臭を嗅ぐと狂暴化するが、それ以外では人間と変わらず、思考力・学習能力を持ち合わせている。
ハイブリッドたちは実験材料として軍事施設に幽閉されており、その中でもメラニーは特に高いIQの持ち主であった。

さて、勘のよい方ならもうお気付きと思うが、このメラニーに代表される「意思を持ったゾンビ」、形は違えど「ランド・オブ・ザ・デッド」と共通のテーマだ。
そして「パンドラの少女」が大変上手いのは、「意思を持ったゾンビ」を「普段はふつうの人間」と置き換えたところ。ハイブリッドが特定の条件下でのみ狂暴化することで、人間性を残しつつ、物語性も担保できるというオマケ付き!

実に「ランド・オブ──」が抱えていた問題を、綺麗さっぱり解決しているのだ。


● 評価が分かれる点について

物語が進んで行く中盤辺り、雰囲気がガラッと変わる瞬間が訪れる。

軍事施設に囚われていたのではない、「自然発生的に生まれた野生のハイブリットたち」を、主人公が発見してしまうからだ。

ここから物語は急展開を見せ、やがて次のような秘密が明かされる。


「ハイブリッドはゾンビ禍に対応する為、人類が進化した姿。進化に対応できない者がハングリーズである」──と。


この秘密の皮肉さは、我々映画を観ている観客のすべてが「進化に対応できない側」という点である。
だから終盤、主人公の取る行動が、対応できない我々に対する「裏切り」と映るのだ。

けれども、物語はハッキリこう告げている。

「さよなら旧人類。そして、こんにちは新人類」

筆者としては、その皮肉な問い掛けも含めて、「大きな意味で人類は生き残ったんだから、ハッピーエンドじゃね?」と、
まるでタイタニックの救命艇を女・子供に譲る老人の気分で楽しんだが、

果たして皆さんは、どうだっただろうか?