ニューランド

繻子の靴のニューランドのレビュー・感想・評価

繻子の靴(1985年製作の映画)
4.5
この作品をやる予定ですという掛け声を複数の企画で聞いて10年は越えてる気がするから、予約で割と早く満席となったのは、値段的にも話題的にも若い人が飛びつきはしないだろうから、30代以上の待ちに待った人たちの熱によるのだろう。今日観る直前まで、舞台でも上演不能に近い長大戯曲の舞台的ステージをメインとした映画化とは知らず、知ってたらパスしただろう(40数年前に三千円取ったけど、料金を上回る大傑作『魔笛』なんてのもあったが)。しかし、観ていると、戯曲自体が大傑作というのは、舞台に疎い私にも伝わってくるし、作家特有の個性や映画的リズムは半ば封印して、その原型を損なわないタッチも何か頭が下がり、壁の影絵の変容から夜空葉越しポツン月に寄るうちいつしか女性顔が、の原初タッチによる究極の愛についての語りからは、年間に何本も出逢うことのないレベルの作品とはっきり分かってきた。
劇場に観客入場·2階席で揃ってた役者の1人が舞台へから始まり、舞台を拡げた楽隊·観客の場内全体で終わり、幕間の‘映画’に関し喋る口上や·テレビモニター内から入ってく冒頭もあるが、概ね舞台のウェイトが中心にどんくさくも限りなく力強い綴りとなり、映画作家の刻印的スタイルは封印している。横や上へもフォローやパンを含め動く(寝そべった女体のまさぐりも)が、前後へのフォローを越えたズームも絡めての移動が主で、役者の、多くもう1人だけの出ている者や正面を向き客席辺りに対した、方向性に映画的変化を与えることはない、あくまで舞台の感覚を尊重しそこから全ては生まれてゆく。寄り切替えや脇から入る者に従う位置ズレ等シーン内カット変えはあるが、また役者は前後にかなり自由に動き流動感はあるのだが、退きのままな長回しの細工なしのイメージが残ってく。音楽も概ね強く地響きのようでドラマの向きの強弱には無干渉。庭や城内や船上·時に後ろを舟が横切る·を中心としたセットは映画的深度·鋭さとは無縁だが、時折効果や意味を持つ俯瞰め縦図とか、ステンドグラスというより大きな窓枠の光感絡みの寄り図、も同ウェイトで入ってくる。背景は書割然としてなくて、割とラフなキャンバスの絵と云う感じだが、海が中心となってよりは抽象化·地図化·巨大表現も大胆自由でそこをイージーに動く物も自在めに入ってくる。また、終盤船上が増えてよりは、空間も狭さ·サイズも寄りめに移行して、それまでの神秘的壮大さをやや離れる。守護天使や先に述べた影絵·月の顔も巧妙かつ不可避に挟まる。役者は小細工を排し、限界や愚かさも含め只、舞台空間と戯曲世界に、強く従順で目覚める以前の地平を各自手離さない。舞台表現だけに許された即興性や出鱈目抽象化は、展開を速め強める効果というより、流れと並走する世界の骨の太さのように大胆に付きまとってゆく。
16C末から17C始めの、スペインの、ボルトガル併合からイギリスに敗れるまでの黄金期、アフリカや新大陸アメリカにも触手が伸びてるが、国内の混乱·疲弊も明かになってきてて、かの地は副王や大審問官=総督に委ねられ気味で、とりわけアフリカは魅力が薄まってきてる。後にアメリカの副王になる男と、大審問官=アフリカ総督の妻(後に、防衛線を云われずも築く為に甘んじた、モロッコの反乱分子の妻の座に)の間の、言葉も交わした事もなくもふたりに生まれた絶対の恋の成就について描かれてゆくが、地域·出自·身分·人種·世代の違ういくつものカップルも入り交じり、もっとランダムな多種位置関係の相互の愛·主従·敵対·支配·操作·親子·距離·生死隔も確たるものはなく、ふたりの関係はより朧ろに不可能に稀薄となり、または周りの規定を受けつくして括られ絞り込まれ、不可能で究極の体を次第に明らかにしてゆく。「愛」と「神」「聖ヤコブ」と「犠牲」「救い」「与えること」と「解放」「自由」と「喜び」が明らかに一体的に直に結ばるとみえて、「影が併さり溶け合い一体となり、形を失う。ふたりの愛は十字架で寄り合わされているが、縛られている風にも見える」、あまりに現実的迷いのない分、急がず、無·陰·夢·聖·苦悩の底側からしか動かず、現実の手立ては通り過ぎてしまう。初めてじっくり対峙·会話できたのは、それがもとで一方の死にいたる局面でだが、そこでも現実の政治の遂行と、それを受け入れての現在のパートナーへの後半生での負目は、両立しない。現実には思いよりも、現実配慮·それに屈しない意気で、ふたりはあえて距離を近づいても引き寄せようとしない。片方が亡くなると、政治から冷め始め·外れ外され、精神·芸術にスライドし、それでも彼を再び重んじようとする王の、政治的な要請に、再び旧世界に·いや利害越えた世界全体の一体性に関心持ち、与えられた·存在しない英国総督の立場から、相対的に地位を下げ、売買対象にまで落ちる。彼は内面に亡き彼女との平穏を見いだしてはいたが、現実的拡がりを失い閉塞してく中、精神の娘が現実的に一点突破してゆく。安定した愛の形ではなく、愛の絶え間ない運動の形、それも望まれた形ではなく世界が期待する形をもたらさないような、運動とその可能性自体が本作の核となり得てゆく。激しい身振り·叫び·反復もまた引寄せる力なく、客体化されてゆく。ドライヤーですら滲ませた経年による到達感·達成感は、ここでは慎重に排除されてゆく。存在しない無に繋がる、不可能な究極の愛と、その変容·巾。
とにかく、穴だらけでもありもすることが響き合う、そして骨太で広くひた押しで、云われぬ可笑しみも滲み出る、じつは周到で巨大で深遠·太古の重力を持つ戯曲には、圧倒されるが、それに従い·それを映画的という安易な手法で、表現の地平から浮き上がらせない重石~血肉を作劇伝達としては愚かしくも見える形で固め、目前に留めた、反作家的とも云える、その軽さを外した本物のなんたるかを示し得た作品といえる。オリヴェイラなんて、わりと最近『ノン、あるいは~』を観るまで名前も知らなかったし·いくらも観ていないが、『ドウロ河』『フランシスカ』『アブラハム渓谷』『クレーヴの奥方』『言葉とユートピア』らと並ぶストレートな大きな力を感じた。全盛期、江夏のコンビネーションと球筋か。
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