繻子の靴の作品情報・感想・評価

「繻子の靴」に投稿された感想・評価

x27

x27の感想・評価

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自分が見る、自分を見る、見られた自分は見られることによって変わるわけです。見た自分は、見たことによって、また変わる。
「私」が「私」を客観する時の、その主体も「私」ですね。客体としての「私」があって、主体としての「私」がある。客体としての「私」を分解していけば、当然、主体としての「私」も分解しなくてはならない。主体としての「私」がアルキメデスの支点みたいな、系からはずれた所にいるわけではないんで、自分を分析していくぶんだけ、分析していく自分もやはり変質していく。ひょっとして「私」というのは、ある程度以上は客観できないもの、分解できない何ものかなのかもしれない。しかし「私」を分解していくというのも近代の文学においては宿命みたいなもので、「私」を描く以上は分解に向かう。その時、主体としての「私」はどこにあるのか。(中略)この「私」をどう限定するか。「私」を超えるものにどういう態度をとるか。それによって現代の文体は決まってくると思うんです。



わたしは手に、一冊の書物を持っていた。ジョルジュ・バタイユの『マネ』だ。

マネの描く女性はみな、あなたが何を考えているかわかってるわ Je sais à quoi tu penses、と言っているようだ。おそらくそれは、この画家に至るまでは、--このことを私はマルローから学んだのだがーー内的な現実(réalité intérieure)が宇宙[コスモス]よりもまだ捉え難かったからだ。

ダ・ヴィンチやフェルメールの有名な物憂い微笑みは、まず、私、と言う。私、それから、世界。ピンクのショールを纏ったコローの女性さえ、オランピアの考えることを考えていない。ベルト・モリゾの考えることも、フォリー・ベルジェールの女給の考えることも。なぜなら、ついに世界が、内的世界が、宇宙[コスモス]とともに、近代絵画が始まったからだ。つまり、シネマトグラフが。つまり、言葉へと通じてゆく形式が。より正確を期すれば、思考する形式(une forme qui pense)が。映画は最初は思考するために作られたということは、すぐさま忘れられるだろう。だがそれは別の話だ。炎はアウシュヴィッツで決定的に消えてしまうだろう。この考えには、いささかの価値がある。
オリヴェイラの空恐ろしい6時間50分の大作。原作はポール・クローデル、フランス演劇史上の未曾有の大作で映像化不可能といわれた戯曲をオリヴェイラは戯曲に忠実にあっさりと映画化してしまった。ロドリゴ(ルイス・ミゲル・シントラ)とブルエーズ(パトリシア・バルジク)の悲恋である。冒頭から度肝を抜かれる。カメラ目線の口上から一気に劇場内に誘われて、二階席には本作の登場人物が控えていて、主役が舞台に降りて来て芝居が始まる。オリヴェイラが映画と演劇について真剣に考えた途方もない作品だ。ワンシーン・ワンカット、役者は正面目線、動きは前後にカメラ前へ出たり後退するだけ、つまり演技を削ぎ落とすように厳しく制限する、セリフはクローデルの戯曲通り、詩のようなセリフが延々と朗誦される、まるで能か古典劇のようだ。あるいはストローブ=ユイレかパラジャーノフのようだ。スペイン、アフリカ、イタリア、アメリカと世界が舞台になるのだが全てセットで背景は書き割りである。二人芝居が多い。ワンカット5〜6分はザラだ。場面ごとにクレジットタイトルが挿入される。途中に観客に語りかける狂言回しも現れる。全体は三部構成になっている。なかでも第二部で時間が飛ぶのだが、これが判りにくい。全ては詩のようなセリフの朗読で説明されるだけなので、かなりの集中力が要求される。いつまでも続く演劇調の作劇のなかで数少ない映画的な場面がある。ひとつは第二部の「二重の影」と「月の女神の語り」だ。「二重の影」は会うことが叶わないロドリゴとブルエーズがシルエットで逢引きする幻想的な場面だ。そしてその苦悩を月の女神が切々と語る。四方田犬彦はメリエスの「月世界旅行」へのオマージュだと指摘する。もう一つは第三部のブルエーズの娘セテペ(アンヌ・コンシニー)が肉屋の娘と恋人の元へ海を泳ぐ場面だ。これらの場面は印象的だ。ラストのスタジオばらしは壮大である。オリヴェイラいわく「この映画は劇場から入ってスタジオから出る映画だ」途方もない大作である。
alsace

alsaceの感想・評価

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6h50minの長尺映画。無事完走しました。舞台では4部構成のようですが、オリヴェイラの映画版では3部構成になってました。絵画のような画面構成が印象的。普段映画館で見にくい感じの映画なので映画祭らしい企画だと思いました。
ムチコ

ムチコの感想・評価

5.0
410分、わたしの腰よく耐えた。
絶対寝るだろ(むしろ寝てよい)と思ってたけど寝なかったし面白かったー。

クローデルの大作戯曲の、ほぼ完全な映画化(文庫がそのままシナリオになったとか)。登場人物は絢爛な衣装を身につけ、お互いがほぼ正面を向いてせりふを語っていく。感情が交わされているはずなのに視線は交わされず、見ている(スクリーンの外の)観客の目から跳ね返るようにして相手の視線を掴み取る。
途中で「長さといい、立ち位置といい、これ歌舞伎だな」と思ったんだけど、クローデルはヨーロッパへ歌舞伎を紹介した張本人であり、日本駐在中にこれを書いたとのことで、あながち間違ってなかった。

お芝居を見るときって三次元で立体として捉えているのに、それを映画の中に落とし込もうとすると完全な面(二次元)になっちゃうのが面白い発見でした。
mare

mareの感想・評価

3.5
オリヴェイラによる7時間にも及ぶ壮大な大作でサタンタンゴ以来の長期戦だった。原作はポールクローデルの戯曲でこの作品の真価は映画として観ることも演劇として観ることもできる二重の側面にある。幕が落ちて風景が変わったり、登場人物がカメラ目線で延々と議論したり、セリフも膨大で時に追えない瞬間も何度かあったほどで、必然的に人物に目が行くような作りは舞台を観ている感覚になる。とにかくセリフ量が頭でキャパオーバーするレベル。さまざまな国を跨いだり砂漠から海から宮殿までセットも色とりどりで没入してしまう。原作を読み込んでてすっと呑み込めるだけの理解力があれば見え方は全く変わると思う。あとサタンタンゴ方式でエナドリ一気して臨んだけど今回は通用しなかった。何度か気絶しながらもオリヴェイラの貴重な初期作を観れて良かった。
この作品をやる予定ですという掛け声を複数の企画で聞いて10年は越えてる気がするから、予約で割と早く満席となったのは、値段的にも話題的にも若い人が飛びつきはしないだろうから、30代以上の待ちに待った人たちの熱によるのだろう。今日観る直前まで、舞台でも上演不能に近い長大戯曲の舞台的ステージをメインとした映画化とは知らず、知ってたらパスしただろう(40数年前に三千円取ったけど、料金を上回る大傑作『魔笛』なんてのもあったが)。しかし、観ていると、戯曲自体が大傑作というのは、舞台に疎い私にも伝わってくるし、作家特有の個性や映画的リズムは半ば封印して、その原型を損なわないタッチも何か頭が下がり、壁の影絵の変容から夜空葉越しポツン月に寄るうちいつしか女性顔が、の原初タッチによる究極の愛についての語りからは、年間に何本も出逢うことのないレベルの作品とはっきり分かってきた。
劇場に観客入場·2階席で揃ってた役者の1人が舞台へから始まり、舞台を拡げた楽隊·観客の場内全体で終わり、幕間の‘映画’に関し喋る口上や·テレビモニター内から入ってく冒頭もあるが、概ね舞台のウェイトが中心にどんくさくも限りなく力強い綴りとなり、映画作家の刻印的スタイルは封印している。横や上へもフォローやパンを含め動く(寝そべった女体のまさぐりも)が、前後へのフォローを越えたズームも絡めての移動が主で、役者の、多くもう1人だけの出ている者や正面を向き客席辺りに対した、方向性に映画的変化を与えることはない、あくまで舞台の感覚を尊重しそこから全ては生まれてゆく。寄り切替えや脇から入る者に従う位置ズレ等シーン内カット変えはあるが、また役者は前後にかなり自由に動き流動感はあるのだが、退きのままな長回しの細工なしのイメージが残ってく。音楽も概ね強く地響きのようでドラマの向きの強弱には無干渉。庭や城内や船上·時に後ろを舟が横切る·を中心としたセットは映画的深度·鋭さとは無縁だが、時折効果や意味を持つ俯瞰め縦図とか、ステンドグラスというより大きな窓枠の光感絡みの寄り図、も同ウェイトで入ってくる。背景は書割然としてなくて、割とラフなキャンバスの絵と云う感じだが、海が中心となってよりは抽象化·地図化·巨大表現も大胆自由でそこをイージーに動く物も自在めに入ってくる。また、終盤船上が増えてよりは、空間も狭さ·サイズも寄りめに移行して、それまでの神秘的壮大さをやや離れる。守護天使や先に述べた影絵·月の顔も巧妙かつ不可避に挟まる。役者は小細工を排し、限界や愚かさも含め只、舞台空間と戯曲世界に、強く従順で目覚める以前の地平を各自手離さない。舞台表現だけに許された即興性や出鱈目抽象化は、展開を速め強める効果というより、流れと並走する世界の骨の太さのように大胆に付きまとってゆく。
16C末から17C始めの、スペインの、ボルトガル併合からイギリスに敗れるまでの黄金期、アフリカや新大陸アメリカにも触手が伸びてるが、国内の混乱·疲弊も明かになってきてて、かの地は副王や大審問官=総督に委ねられ気味で、とりわけアフリカは魅力が薄まってきてる。後にアメリカの副王になる男と、大審問官=アフリカ総督の妻(後に、防衛線を云われずも築く為に甘んじた、モロッコの反乱分子の妻の座に)の間の、言葉も交わした事もなくもふたりに生まれた絶対の恋の成就について描かれてゆくが、地域·出自·身分·人種·世代の違ういくつものカップルも入り交じり、もっとランダムな多種位置関係の相互の愛·主従·敵対·支配·操作·親子·距離·生死隔も確たるものはなく、ふたりの関係はより朧ろに不可能に稀薄となり、または周りの規定を受けつくして括られ絞り込まれ、不可能で究極の体を次第に明らかにしてゆく。「愛」と「神」「聖ヤコブ」と「犠牲」「救い」「与えること」と「解放」「自由」と「喜び」が明らかに一体的に直に結ばるとみえて、「影が併さり溶け合い一体となり、形を失う。ふたりの愛は十字架で寄り合わされているが、縛られている風にも見える」、あまりに現実的迷いのない分、急がず、無·陰·夢·聖·苦悩の底側からしか動かず、現実の手立ては通り過ぎてしまう。初めてじっくり対峙·会話できたのは、それがもとで一方の死にいたる局面でだが、そこでも現実の政治の遂行と、それを受け入れての現在のパートナーへの後半生での負目は、両立しない。現実には思いよりも、現実配慮·それに屈しない意気で、ふたりはあえて距離を近づいても引き寄せようとしない。片方が亡くなると、政治から冷め始め·外れ外され、精神·芸術にスライドし、それでも彼を再び重んじようとする王の、政治的な要請に、再び旧世界に·いや利害越えた世界全体の一体性に関心持ち、与えられた·存在しない英国総督の立場から、相対的に地位を下げ、売買対象にまで落ちる。彼は内面に亡き彼女との平穏を見いだしてはいたが、現実的拡がりを失い閉塞してく中、精神の娘が現実的に一点突破してゆく。安定した愛の形ではなく、愛の絶え間ない運動の形、それも望まれた形ではなく世界が期待する形をもたらさないような、運動とその可能性自体が本作の核となり得てゆく。激しい身振り·叫び·反復もまた引寄せる力なく、客体化されてゆく。ドライヤーですら滲ませた経年による到達感·達成感は、ここでは慎重に排除されてゆく。存在しない無に繋がる、不可能な究極の愛と、その変容·巾。
とにかく、穴だらけでもありもすることが響き合う、そして骨太で広くひた押しで、云われぬ可笑しみも滲み出る、じつは周到で巨大で深遠·太古の重力を持つ戯曲には、圧倒されるが、それに従い·それを映画的という安易な手法で、表現の地平から浮き上がらせない重石~血肉を作劇伝達としては愚かしくも見える形で固め、目前に留めた、反作家的とも云える、その軽さを外した本物のなんたるかを示し得た作品といえる。オリヴェイラなんて、わりと最近『ノン、あるいは~』を観るまで名前も知らなかったし·いくらも観ていないが、『ドウロ河』『フランシスカ』『アブラハム渓谷』『クレーヴの奥方』『言葉とユートピア』らと並ぶストレートな大きな力を感じた。全盛期、江夏のコンビネーションと球筋か。
tokio

tokioの感想・評価

4.1
Rec.
❶20.11.27,アテネ・フランセ文化センター(35mm)/第21回東京フィルメックス 特別上映
A

Aの感想・評価

5.0
とりあえず7時間もある映画を最後まで見たら☆5にせざるをえないのが人情というものだろう。まあ時間抜きにしても演劇をつよく意識した演出は面白かった。内容は映画みる前に原作小説を読んどいてほんとよかったくらいに省略省略で話が飛んでくし、出てくるキャラも多いので原作読んでないとどれが誰かもわからんかったかもしれない。終盤になるとおしりと腰が爆発しそうなくらいストレスがすごくて映画に集中できなかった、というか早く終われの一心となっていた。長い映画というのはどこで見るかも重要だなと思わされた。(9去年みたサタンタンゴはリクライニング付きシートで見てかなり快適だった)
9

9の感想・評価

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ディズニーシーの延長線だった、ラストの合唱隊とかソアリン意識せざるを得ないやつじゃん
mat9215

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3.5
2020年11月22日。冒頭、オペラハウスのロビーから舞台で上演が始まるまでの長回しショットでわくわくするも、第一部・第二部は登場人物たちの関係が追えずに何度か気を失った。第三部はペースに慣れてきて、しっかりと堪能。ラスト、舞台の上の舞台のコーラス隊を捉えるあたりでむやみに感動してしまった。終わりよければすべてよし。これは、機械仕掛けの神(デウス・エクス・マキナ)ならぬコロスそのものの顕現。なお、朝日ホールは相対的にスクリーンサイズが小さく、映画の上映には向いていない。二列目左端の座席から鑑賞するのは苦痛だった。これが、気を失った理由だったかも。
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