テオ・アンゲロプロスは語り口が詩的なのであって、映像自体は別に詩的ではないよな。映像詩人といえばわたしはジョンフォードしか思いつかないな💭(とボンヤリ考えていた)(みんなはどう思いますか?)ほんとの映像詩人の映画では、台詞の言葉の意味はあまり大きな役割をなさない、映像がかわりに全てを物語ってくれる。(それで言うとおづーづの映画では台詞は意味をもつというよりすべてテンポを作るための音楽みたいになってる気がする)それはそもそも「詩」自体にいえることで、詩人は言葉のもつ意味やその言葉じたいを信頼するのではなく、ただもっと音の響きやリズムのほうを大事にしていて、そのことによって言葉の意味をこえたもっと大きな何かが宿るのだとおもう。(音楽は頭で理解するものじゃなくて体の器官で感じるものだろ?ということをたしかウエルベックの『セロトニン』に書いてた気がする)
でもこの映画も心にぽりんと残るような雰囲気だったよ。その要因のひとつは、なかよしのS氏が私に会うたびにこの映画をおすすめしていたからだというのもあります。S氏も歳取ったらこのブルーノガンツみたいになるのかなぁ、とてもいいやな〜〜
今読んでるユルスナールの小説の雰囲気にもすこし似てると思った
あと『幸福なラザロ』
自分のための映画、というよりは友だちがすきそうな映画、としてうれしかった☺️(私がすきな人がすきなものっていいし、それはそれで自分にとってとくべつだよね)
やはり最近気づいたのだが、いかんせん私は自分をインテリだと思えないみたいだ(当たり前だ、何を言っておる、お前はどこからどう見てもインテリのイの字も書けんジャガイモ娘じゃろ)(というご意見もあると思いますが)とにかく、私は生まれながら労働者側だ…。貴族とかインテリとか金持ちとか、そっち側の人たちの作品を見るのも好き(だしなりたい)けどあまり心が揺さぶられなくなってきた。カウリスマキやトリュフォーのことが好きなのも、トリアーのことがやっぱりそんな好きになれないのも、そりゃそうなのだ