かずや

牯嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件 デジタル・リマスター版のかずやのネタバレレビュー・内容・結末

4.8

このレビューはネタバレを含みます

四時間という長さはそれなりの疲弊を伴うものだが、それでもこの映画をスクリーンで観れて良かったと心から思う。映画というものに対する、自分の考え方や向き合い方を根底から変えてくれた。

鑑賞後、 感動とはまた別の感覚、身体の中でスクリーンの放つ深い闇が反響する感覚があった。いくつものシーンが忘れがたい印象を残したはずなのに、届けられたものは抱えきれないほど大きく、ただ厳かな闇とだけなって胸を満たした。そして、そのことを上手く言葉にできないもどかしさが残った。
帰宅してからパンフレットを開き、濱口竜介監督のレビューを読んで目から鱗が落ちた。
濱口はこの映画を、「人生で最も重要な映画のひとつ」とした上で、何度見ても必ず忘れてしまうと告白する。そして、「私たちがこの映画のことを「忘れて」しまうのは、実はこの映画のもっと根本的なありように由来している」と断言する。

「まずは暗い。特に序盤から中盤過ぎまで濃い闇が画面を支配し、果たして何が起きているのか、観客は正確に把握することができない。加えて、登場人物の数が多い。更に、その大人数を包括的に捉えようとするキャメラの位置は必然的に遠い。」

この〈暗さ〉〈多さ〉〈遠さ〉についての彼の言及はもっともだと思う。私自身も、パンフレットの人物相関図を読むまで、一人ひとりの人物や関係性を的確に把握できていなかったし、誰がいて何が起きているのか判然としないシーンもあった。
そして濱口はこの236分版と、かつて公開された188分版を比較した上で、前者には因果関係を干渉するサブプロット的部分=「あいだ」が存在していると述べ、「この236分版の因果関係の不明瞭さが明確な意思によって選びとられたもの」だと指摘する。要するに、この映画は物語をわかりやすく伝えることを意図していないのだ。以下、非常に感銘を受けた箇所を引用したい。

「『牯嶺街少年殺人事件』は一般的な物語映画のように各シーンの意義を把握させてくれない。我々が映像によって語られた物語を把握できるのは、フレームの中で中心化された各ショットの出来事が、その前の出来事と確かなつながりを提示し続けてくれるからだ。しかしこの236分版においては「あいだ」が差し挟まれることで、いくつものシーンが「結果」を欠いて提示されることになる。シーンは何かの「原因」になり損ねたままでいる。そのとき、何が起きるか。観客の眼前で、シーンは文字どおり純粋な「光景」と化す。抗争のために校舎の階段を駆け上がる少年たちが見える…、バスの車窓とすれ違う幾つもの戦車たち…、アメリカ音楽に熱狂する若者たち…、そういえば電気が点いた瞬間に教室を出て行った女の子がいた…。結果を欠いて宙づりにされたいくつもの原因=光景の有りようは、実のところ私たちの生活にありふれている。その体験は例えば車窓の右から左へ流れていく、光景としての〈世界〉に見入ることととてもよく似ている。だから時が経てば、光景たちは観客にそのまま忘れ去られてしまう。「あいだ」、そして「暗さ」も「遠さ」も音も、この映画のすべてが観客に忘却を促していると言ってもいい。」

ここから濱口はさらに観客の「身体」について論及しながら、重要で興味深い指摘を色々としているのだが、これ以上の引用は控えておく。
ここで彼がいうように、この映画ではあらゆる「光景」が積み重なり、それらはやがて一つの〈世界〉となって観客に提示される。もちろん、巷に溢れる魅力的な物語映画も、その物語を通して真実の〈世界〉を映そうとしているに違いないが、この映画は〈世界〉を映すために物語ではなく「光景」を用いた。見終わったあとに自分が受けた感覚、すなわち、身体の中でスクリーンの放つ深い闇が反響する感覚というのは、四時間を通して映画の提示する〈世界〉が身体に到達したことの証だ。
我々は〈世界〉のなかの断片を取り出して、それについてあれこれと語ることはできる。それはいつも通りに映画について語るのと同じようなことだ。だが〈世界〉をまるごと語ることはできない。

映画スタジオの天井裏、そこから覗き見る撮影現場、警備員との追いかけっこ、盗んだ懐中電灯、試験結果に異議を申し立てる小四(シャオスー)のお父さん、職員室での会話、お茶が入ったガラスの茶器、教室の授業風景、配られるプリント、不良グループの抗争、ステージに立つ王茂(ワンマオ)のソプラノボイス、宴席での集合写真、雨のなかの殺陣、食卓の会話、母の小言、押入れのなか、明滅するライト、小明(シャオミン)に初めて会った日の保健室、草原沿いを歩く二人、転校生の小馬(シャオマー)との交流、ハニーが殺された夜、ライブの熱狂、壊れかけのラジオ、日本人女性の写真、図書館での勉強、近所の酔っ払い、ジュースに入った氷、西部劇のガンマン、ビリヤードの玉、連行される父、警官の尋問、銃を構えた小明、響く銃声、小馬のビンタ、体育館で整列する生徒たち、暗闇から現れるバスケットボール、本棚の裏のナイフ、小明を刺し殺した夜、姉の嗚咽、捨てられた王茂のカセットテープ、エルビス・プレスリーに届き小四には届かなかった…。

切れぎれになったいくつもの断片を取り上げて、それについて語ることはできるのに、そのすべての総合である映画=〈世界〉を語ることはできない。
通常の物語映画であれば、いくつものシーンを糸で繋ぎ合わせるようにして全体について語れるし、糸で繋がっているからこそ映画を忘れることはない。
だが、本作のシーンは因果の糸で繋ぎ止められることを拒絶し、「光」として、「闇」として、「光景」だけが残る。そしてそれこそが〈世界〉を映すということなのだろう。『牯嶺街少年殺人事件』の異様な「語れなさ」は、この映画がフィクショナルな〈物語世界〉を超越し、紛うことなき〈世界〉を提出しているからこそのものだと言えるのではないか。

小四はなぜ小明を殺したのか、その理由など本当の意味で観客がわかることはないし、わかる必要もない。この映画は、あらゆる「光景」の果てにあるものとして殺人を設定しておらず、観客は積み重なる「光景」の一部として殺人が起きたことを受け止めなければならない。本作のショットは人物の心情を雄弁に語らない純粋な「光景」のため、例え主人公であろうと観客が深く感情移入することはできない。当然、小四のなかでは複雑な感情のもつれがあり、嘆きや興奮や苛立ちや失望の終着点としてあの殺人があったのだろうが、「光景」だけを観てきた観客には、小四の内心にある殺人の動機など正しく理解できるはずがない。
エドワード・ヤンは、殺人という劇的なインシデントさえも物語のなかに回収されることを望まず、〈世界〉の「光景」の一つとして、その他のシーンと同列に配した。(「結末が理解できない!」と憤る観客は、純粋な「光景」を自分が理解できる範囲の物語へと落とし込む暴力性について自覚しなければならない。)

ここで注意したいのは、そうした純粋な「光景」は、目前の風景をただそのまま撮っていれば完成するものではないということだ。そこにはもちろん監督の類稀なる才能と粘り強い格闘があるだろう。
例えば、最後の刺殺の場面、地面にくずおれる小明に向かって「起き上がるんだ!」と叫ぶ小四が画面の中心で描かれる。その周りを取り囲む下校中の生徒や建ち並ぶ屋台は、背景となって二人の空間に介入してこない。中心化される小四と小明、遠景化する周囲の人物という画面構図は、この悲劇を小四が一人で背負わなければならないことを暗示し、突き放すような社会の冷酷さや距離感を強く印象付ける。こうした一つひとつのシーンに対する撮り方のこだわりも、純粋な「光景」の成就に不可欠なものだ。

鮮烈な光と濃密な闇が築き上げた説得力のある〈世界〉、そこには確かに真実味が宿っている。映画全体の「光景」すなわち「光と闇」が、うねり、ほとばしり、混じり合いながら、スクリーンに映し出す真実味にこそ、この映画の最大の魅力があるように思う。


映画を観てから二日後、もう一度観たくなって早稲田松竹に行こうしたが、公開最終日ということもあり、すぐにチケットは売り切れてしまった。ただひたすらに真実の〈世界〉を追い求め、そこで躍動する瑞々しい生命をそのまま閉じ込めたエドワード・ヤンの在り方に、“amusing”や “entertaining”の先にある映画の可能性を感じ、映画を観ることの悦楽を教えてもらった。〈世界〉の不思議な引力が、何度でも私をこの映画に導くだろう。
かずや

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