垂直落下式サミング

オリエント急行殺人事件の垂直落下式サミングのレビュー・感想・評価

オリエント急行殺人事件(2017年製作の映画)
3.5
作り手の軸足がどこにあるか?
そういうことを考えながらみると、この監督は何に入れ込んでいて、映画にとって何が必要だと考えているのか。アーティストとして方向性がなんとなくわかってくることがある。
CMディレクター出身のデヴィッド・フィンチャーは画面構築に、特殊効果職人から生え抜きのギレルモ・デル・トロは異形の怪物の造形に、エロゲーオーブニング出身の新海誠は女の子の仕草に、それぞれに入れ込むものがある。
自身も俳優のケネス・ブラナーは、出演俳優たちの演技の力を信じているのだと思う。いい俳優のいい演技があることがいい映画の条件だと、そう言わんばかりに。実際に作った原寸大オリエント急行の客室や食堂車の舞台装置から、アルプス峠のロケーションやグラフィックにいたるまで、役者の演技を引き立てるための舞台装置として割りきっている。力量のある役者たちの会話のやり取りによって物語をみせることを、信条としているようとしているようだ。
実際に、ポアロの推理劇が冴え渡るオリエント急行殺人事件は、役者それぞれに見せ場を与えて、それをみせるのに適した題材であったと思われる。正義を求めたワンチーム。探偵が乗り合わせても、役割を遂行する。ひとつの劇団かのような…。
キレイな客車のなかで腕のある役者たちの演技合戦をみていると、上質でクラシカルな演目の厳かな雰囲気はそのままに、よく映画に落とし込んだなと。
悪く言えば、あまりにも演劇的だからセリフが段取り臭いのは確かにそう。でも、会話劇ってそういうもんだ。シドニー・ルメット版みたく、セリフ、セリフ、セリフな、ポアロの独壇場で通すのもひとつだが、こちらは現代的なドラマを作り方で語り直しをはかっている。
とにもかくにも、軸足は役者の演技なのだから、もう片方の足を雑に動かして、観客に色目使うようなことはしないほうがいいんじゃないかな。途中のアクションシークエンスは、観客を飽きさせないためにムリに突っ込んだような感じだし、にしてはショボいしさ。
社会派という軸足から少しずらして、純正のエンタメもできるシドニー・ルメット御大はスゴかったんだな。小手先の跳んで跳ねてみたいなのがあるせいで、せっかくのゴージャスな映画体験が格落ちでしたね。トラベリングは、初歩だよ。ワトソンくん。

最近、思ったより筆が乗るので、原作との違いについて一つ二つ…。この映画では、聖地エルサレムの嘆きの壁の御前にて、ポアロは大岡裁きを披露し、ひと仕事を終えてようやく休みだったというのに、たまたま乗りあわせた列車で殺人事件が起こるなんて…となるけれど、アガサ・クリスティの原作には、この前提は丸々存在しない。
このプロローグが、まず微妙っていうか…余計っていうか…。クリスチャンもムスリムもユダヤも、誰も悪者にしないよってのをやりたかったのかな。それこそ主張ありきで安直なヤリクチだとおもいますけどね…。お説教おじさんセンス発動しちゃってんじゃないのっ?
それはさておき、ポアロの目的が仕事ではなくて休暇となって、優雅な休暇台無し系の系譜となっているのも気になった改変ポイントである。
本作では、とりあえず出張先のヤマが一段落したから、休暇がてらゆっくりロンドンに帰りましょうと列車を手配する運びとなるのだけど、原作であれば本国で請け負っていた事件に進展がみられたと出先で報告が入ったから、ポアロは次の仕事のために、本来ならはやく帰んなきゃなんない状況であるわけです。
単に映画の主とする物語に、その情報は関係ないから、スパッとやっても問題はない。だけれど、「休暇中」と「次が控えた状態」では、当人のモチベーションも大いに変わってくるはずでしょう。
新しい事件のために次の現場に向かうアルバート・フィニーのポアロは、さっさと終わらせて帰りたいって気持ちも強いからか、乗客の誰よりも目がガンキマッてたような気がしたけれど、ケネス・ブラナーのポアロはオトナの余裕がある。
持ち前の社交性で会話を楽しんだり、ジョニー・デップのウザ絡みにイライラしたりしながら、友人の頼みを断れず仕方なく事件の捜査を手伝っていくなかで、だんだんと信念が燃えてくるような高潔さがあった。
あまりにも有名な結末。この世には正義と悪しかないと断言したポアロが、善悪論で図れない真相を如何にするか。どうにもなんないから、しぶしぶ闇に葬るかと…。これは、正義が敗北するはなしなんですよね。だのに、よくもまあこれほど感動的に仕立てられたもんですな。