1900年にエジソン社で映写技師として働き始めたポーターが、自社が輸入していたヨーロッパ映画を参考にスキルを磨きながら作った初期作品。
スタジオから飛び出し、ブリューゲルの『雪の中の狩人』を思わせる光景の中でロケ撮影された、臨場感のある小品である。
『Terrible Teddy, the Grizzly King』はどういう意図で作られたのか?
ウィリアム・ランドルフ・ハーストは、『市民ケーン』のモデルにもなった当時のメディア王。
ハーストの「ニューヨーク・ジャーナル」に掲載された漫画に、当時の副大統領セオドア・ルーズベルトが「売名のためにライオンを殺したマッチョな狩猟愛好家」として描かれた。
今作はその政治漫画から着想を得ており、「アメリカにおける最初の政治風刺映画」と呼ばれる。
「現実社会と観客とのメディア(仲介者)」という役割を強く意識しているのが、従来の映画と大きく違うポイント。
2つのショットで成立しており、映画編集の最初期の例である点も重要だ。
(1901年の2月4日と18日に掲載された風刺漫画のコマを、ファーストショットとセカンドショットがそれぞれ表している)
興味深いのは、上述の風刺漫画が掲載されて間も無い1901年2月23日に、完成した今作の著作権をエジソン社が申請していること。
出来事が起こる→それをネタに撮影する→公開する、という流れが非常に迅速で、今作はニュース映像としての役割も果たしている。
次々と現れる競合他社としのぎを削り合い、自社映画をビジネスとして存続させるために、エジソン社は「より面白い映像を作る」と同時に「より速く情報を届ける」という方法で差別化を狙ったのだろうと思う。