Torichock

アイ, トーニャ 史上最大のスキャンダルのTorichockのレビュー・感想・評価

4.5
「I,Tonya/アイ、トーニャ 史上最大のスキャンダル」

audience killer LOOP

〜胸を切り裂いて流れる血にさえ理由が必要
そうだろ?
人とは傷付けることで癒されていくのだろ?

目の前は深いお前らの渦と嘘の箱庭〜


会ったことも話したことも祈ったことも殴ったことも愛したこともない、外野どもは簡単に言う

“裏切られた”
“国の恥”
“説明責任”
“真実を話せ”

クソ食らえ、このAudience Killerども。
クソみたいな生活の中で生まれたクソどものはけ口のために、芸術もスポーツも何もかもが存在しているのではない。

なのに、クソッタレどもは簡単に自分を投影しやがる。
クソ食らえ、お前らが気持ちよくなるために全てがあると思っていやがる。
何が応援だ。
金賭けて応援してる方がよっぽど健全だ、応援する意味があるから。
ファンのために、応援してくれる人のために、って言葉を真に受けてるのか?
みんな、自分のためにやってるに決まってるだろう。

そのくせ、何かあるとすぐに掌を返す。
敵役が欲しくて、叩く存在が欲しくてウズウズしてやがる。
なぜかって?
有名で分かりやすい敵役をこさえて、そいつを叩いていれば、大方自分が正しいことをしている気になれるからだろう?
自分が正しいって感じれるのって、最高に気持ちいいもんだろ?
ワイドショー観てオナニーでもしてろよ、クソ食らえ。
アメリカとか関係ない、このクソ日本でもほとんど変わらないからね、これ。

メディアが垂れ流すクソに翻弄され、そのクソをクソったれ同士でこねくりまわし、クソを吐き出すことしかしないお前らa.k.a我々に、何一つとして語る価値も議論する価値も無いし、答えなんて誰にも出せないのだ。
そう、真実なんてどうだっていいし、本当のことなんてわかったところでどうすることも出来なければ、当人たち以外にとっては一時の暇つぶしにしか過ぎない。

ニーチェの言葉を思い出す。

“事実というものは存在しない。存在するのは解釈だけである。”

オーディエンスが気持ちよくなるための真実なんか、クソ食らえ。
オーディエンスが気持ちよくなるための正義なんか、クソ食らえ。

作中、登場人物同士がお互いを
“怪物!”と罵り合っていた。(「となりの怪物くん」とは無論関係無い)

確かに、彼らは怪物だった。
トーニャは、自分を表現するスケートのためなら、暴言も横暴な態度も、あるいは芸術とかいうフワッとしたものとも立ち向かうことを辞さない怪物だった。
ラヴァナは、娘を一流にするためなら、猛毒母で美川憲一上等の怪物だった。
ジェフは、トーニャへの愛のためなら、暴力も脅しもなんでもする愛の怪物だった。
お友達のデブは怪物というか,,,最後の本人映像が、あまりにも闇が深すぎて爆笑した。あいつはちょっと論外、ヤベーよ。

そう、確かに彼らは怪物だった。
だけど、どうだろう?連中は、必死だったのだ。
貧困とか惨めさから、死に物狂いで抜け出そうと必死だった。

その必死な連中を前にして、
いい時は喝采を送るくせに、つまづいた瞬間に掌を返して蔑み、自分らのクソのはけ口に、自分の正義を感じるためのオナニーに彼らを”利用”するのが、世俗的な価値観を持った”人間”なのか?

クソ食らえ。
「ダークナイト」の時と同じことを言わせてもらう。
そんなものが人間なら、僕はそこから下りる、”怪物”に喜んで成り下がろう。

醜いと罵倒されてでも、汚い手を使ってでも、他人を蹴落としてでも自分のために必死に戦え。
「Let It Go」の日本語訳verの歌詞にはヘドが出るが、この作品の自分が自分であるためには、心の底から信じられる。

彼女がスケートを奪われて選んだのは、ボクシング。
リンクからリングに場所を移し闘った。
でもきっと、彼女が戦い続けた相手はスケートであろうと、ボクシングであろうと同じだったような気がする。
彼女が最後に見せ付けた、血に染まった笑顔に僕は見たのだ。


“これが私だ、クソ野郎ども”


この映画を、僕が味方しないわけがないだろう。


追記だが、このバカバカしくも世間に中指を突き立てたくなる作品のトーニャに完全に同意を送りたいことがある。
言わなくてもいいけど、どうせなら言わしてもらいます。

スポーツなんだから、すごい技やってうまいほうが勝ちだろ。
芸術点とかフワッとしたこと言ってお高く止まってんじゃねえよ、だから嫌いなんだよ、フィギュアスケートは。


クソ食らえ。←何回言ったでしょうか?
Torichock

Torichock