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ネルーダ 大いなる愛の逃亡者のJAmmyWAngのネタバレレビュー・内容・結末

4.8

このレビューはネタバレを含みます

『イル・ポスティーノ』が『ありふれたものへのオード(Odas Elementales)』辺りのネルーダの姿勢を抽出した作品だったのに対して、本作は明確に『おおいなる歌(Canto General)』におけるネルーダに焦点を当てているワケで。田村さと子を引用すれば、それはすなわち詩を「社会的役割としての詩」そして「唱導、説得としての詩」と捉え、自身を「民衆のための詩人」として意識しているネルーダである。ビデラ大統領の裏切り(!)によって逃亡を余儀なくされた、共産党員の議員である詩人・ネルーダという巨大な存在である。

劇中でも言っていたけれども、ネルーダの詩によって自身の苦悩を言い表す言葉が与えられ、心の救済と世界に対峙する勇気を獲得した人は本当にたくさんいるのだろう。それは何も共産主義者に限定される必要はなくて、愛や裸体や靴下やトマトについての詩に至るまで、ネルーダによって生み出された言葉の数々は、あらゆる人間を世界と結び付けてくれるものだと僕は思う。そもそも詩とはそういうものなんじゃないのかとも思ったりする。

逃亡中のネルーダを追跡する警官ペルショノーは、単刀直入に言って僕自身だと思った。僕がネルーダを知った時、「アジェンデ大統領と共に当時のチリ情勢を象徴する詩人って面白くね?www」と単純に(たぶん鼻水を垂らしながら)そう思って、詩集を読んでみたらそのスタイルの変遷に驚いて(戸惑って)、この人の事をもっと知りたくなって『ネルーダ回想録』も読んだらコレが滅茶苦茶面白かったワケです。
ネルーダ自身が回想録の中で「詩人という職業はその大きな部分が鳥のようにあちこち飛び回ることだ」と書いているように、この人は本当に世界中を飛び回り、自然や人々の内部に入り込んでは世界を体現している人なのである。

僕がネルーダの詩を、回想録を読んでいた行為は、僕にとってはネルーダという存在を、そしてそれが体現する世界の姿を、楽しく味わいながらも自分自身の中に捉えたい、言葉を追い掛けながらその像を捕まえたいという性質のものに変わっていったと思う。本作の警官ペルショノーと僕と、その本質において一体何が異なるというのだろうか。
そして、たぶん世界には、僕と同じようにネルーダに魅了された人がたくさんいて、本作の監督パブロ・ララインだって恐らくその一人で、憧れのネルーダを自分の世界の中に捉えたいのだろう。そして彼の存在に近づきたいだろう。

しかしながら、そうした願望がやすやすと成就するハズはなく、ペルショノーはネルーダに辿り着けないのである。(縮んではいくけれども)埋まることのないこの距離は、「遥かなる憧憬」と「わたし」との永遠の距離である。

ラストでネルーダがペルショノーの名前を呼ぶワケだけど、これは本当の意味での夢というか願望というか、場合によっては下手な自己救済に終わってしまうような危険性を、本作は見事に回避しながら一つの希望ある提示へと昇華していると思った。すなわち『二十の愛の詩 20番(Puedo escribir los versos...)』の引用へと繋げる事によって。

別れた女に対する諦観と未練とのアンビバレントな心情が詠われているこの詩は、劇中で何度も引用されているんだけども、それはネルーダおよび自分(ペルショノー)以外の他者によって朗読されているワケである。ラストシーンにおいて、それは初めてペルショノーの口から引用されるのであって、彼はネルーダに名前を呼んでもらった事により、「今夜 わたしはこのうえなく悲しい詩を書くことができる(Puedo escribir los versos más tristes esta noche)」というこの詩の冒頭を読み上げる事が出来たのである。どういう事かというと、ネルーダによって与えられた言葉が彼の憧憬に起因する苦悩を描写して、彼は真に世界(=他ならないネルーダという憧憬!)に対峙したのである、というような事ではなかろうかと。この文脈において、この詩で詠われる「女」とは、もうほとんど「ネルーダ」の事じゃないのか。

劇中では最後まで引用されないけれども、この詩は、こんなフレーズで締め括られている。
「これが あの女ゆえの最後の苦しみ
これが女のためにかく最後の詩なのだが」
この詩を引用した意図をこの部分まで考慮するならば、「憧憬に対して埋まらない距離の中に、焦りや羨望によって自己を埋没させるのはこれでお終い」というような、ネルーダが主役ではなく、ペルショノー(僕)が主役の物語を始められるような、そんな希望が僕には見えてきたワケです。ネルーダによって生み出された永遠の距離が、他ならぬネルーダの詩によって救済され、自分は自分の世界を生きていけそうだと、ネルーダを、憧憬を力としながら生きていけそうだと、そんな事が描かれたラストだったのではないかと、僕はそう思ったのです。

こんな作品があって本当に良かった。まあ当たり前のように号泣しまして、キャストの顔だけを見ればネルーダよりピカソの方が圧倒的に似てたなあとか、そんな雑念はマチュピチュの山頂に吹き飛んでいき、きっと今頃はその空中都市を訪れた観光客によって人知れず踏み潰されているであろう。¡Muchas gracias!
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