司法制度にメスを入れ、伏線を張り巡らせて、そして逃げる是枝監督。
殺人事件の真相に迫る刑事の視点ではなく、依頼人である殺人犯を弁護する立場に観客は置かれ、弁護士の重盛を通して二転三転する男の供述に翻弄された。
あらゆる場面に意味深な描写があり、それらを頭の中でかき集めている途中でフッと息を吹きかけられて飛ばされる。掴んでも掴んでもすぐに落ちる吊革ばかりで、嘘と真実の狭間で揺れる電車でのたうち回る気分。
1羽だけ逃がしたカナリアは咲江を表していると思うが、それは弱者を助けたのか、罪人を助けたのか、どちらにもとれるメタファーだった。三隅が殺したのか殺していないのか、その答えは観客に委ねられるのでモヤモヤが残る。
「何かあったらまた助けてくれる?」と訊く娘に「助ける」と答えた重盛と、咲江を助ける三隅。同じ娘をもつ父親の類似性が接見したガラスに重なっているようだった。そして、重盛と同じように観客も三隅に飲み込まれ、空っぽの器に入れられる。
三隅って男はとにかく気持ち悪かった。「狼が来た」と毎晩言っていた少年が急に「今夜は来ないよ」と言う気持ち悪さ。表か裏かまるで分からない。
よくある法廷ミステリーと違い、司法制度の矛盾を鋭く描いていた点は驚き。裁判官は訴訟経済を優先し、スケジュール通りに数をこなす。検察側は犯人性を争わず、弁護団は勝利にこだわる。真実を追及すべき場で真実が二の次になっている事は問題だ。
一度目の殺人は30年前の北海道、二度目の殺人は河川敷の山中殺しなら、三度目の殺人は?すべては三隅のシナリオ通りで、司法制度に殺される三隅自身がそれに当たるのだろう。重盛が頬を手で拭うシーンは、まるで三隅の血を拭ったように見え、ラストは十字架を背負ったようだった。
嘘ばかりつく男がジャンケンをする前に「グーを出す」と宣言したので、表か裏か悩みながらポンと出した所でエンドロールとなり、手を映さないような映画だった。