麟チャウダー

ザ・フレームの麟チャウダーのレビュー・感想・評価

ザ・フレーム(2014年製作の映画)
4.0
YouTubeとかで観れる数分の短編映画を2時間じっくりやってくれた感じの作品。全体的に、見慣れない変な撮り方や編集で違和感があって気持ち悪い。映像の安っぽさもあって、独特の作風と世界観になってて不思議な映画だった。ずっと夢を見ているような感覚。既視感ある内容なのに見入ってしまった。作り方も、内容も、ヘンテコなんだけどそれも含めて、かなり面白かった。

物語は、泥棒として生きる男性と救急隊員として生きる女性が、お互いの人生を描くドラマの番組を観ているが、ある日、テレビを通じてお互いの現実が交差することで、互いに自分は“ドラマの登場人物”だと知る。っていう感じ。

その物語展開で、映画を観る、ということの温もりと冷たさを感じさせるような描かれ方がされていく。

テレビの中に世界があって、テレビの中で主人公が生きていて、そこに主人公の人生があって、生活があって、主人公には感情があって、悩みがあって。
登場人物を、まるで生きているように感じられて、応援して、心打たれて、次の日までその人物のことを考えて、その物語が明日の自分に繋がっていく。自分の生活と、物語の世界が、明日も明後日も現実を共に生きて行く。

映画を観てる間だけ、その世界は確かにあって、登場人物が生きている。現実の中にある、もう一つの確かな現実なんだって感じられる。自分にとっては存在している現実だと思えたり。
実際には会えない人物がそこにいるその世界。その人物もその世界も丸ごと愛しいものであると思えたり。
物語の結末は脚本にすでに書かれているけど、観てる人の祈りによって結末が変わるんじゃないかって思ってしまったり。
物語に没頭する、楽しむ、映画を観るってこういうことだなっていう温もりがあったと思う。

登場人物と、観ている自分が同じ気持ちでお互いを見つめ合っていたっていう奇妙な繋がりが、なんか良いなって思った。
だけど、この映画で主人公の2人は繋がりを持っているけど、この映画の外側の観客はこの2人を眺めてるだけなわけで、それが終盤に効いてくるのが良かった。

主人公は創作の世界、物語から出して自由にしてくれと叫ぶわけだけど、それに対して何もしてやれない観客としての立場、傍観している観客っていう自分を突き付けられた。終盤、主人公がカメラ目線で言ってくるもんだから、ドキっとした。

映画を観るということは脚本上の運命を受け入れるしかなくて、登場人物を見殺しにするしかなかったり、っていう変えられない運命を目撃するしかできないという居たたまれなさを感じた。脚本に書かれた登場人物に、命が宿ったら、魂が宿ったら、こんな悲しい気持ちになるんだなって思った。
「どこにこんな残酷なことをする奴がいるんだ?何が目的で?」
自分の人生が、誰かが書いた脚本だとしたら、今までの苦しみは何だったんだ、今までの苦労は何のためにあったんだ、誰が何のためにこんな人生を俺に与える必要があったんだ。なぜ俺がこんな人生を送る必要があったんだ。俺の人生は物語だったのか?という叫びには、映画の持つ冷たさを急に感じた。

物語という形で、人生が用意されていたら溜まったもんじゃないなと思う。
そこで監督は、神の立場を観客に与えたのかな。観客に神であると感じさせた、神と同じ立場、神と同じ視点にした。そこで、神が用意した物語の残酷さに喘ぐ主人公達、を観せることで“人生を用意した立場がいる”という恐ろしさを感じさせようとしたのかな。

この映画では、この2人にしかできない形で創作の世界から自由になろうと、もがいていた。それは、ただ自分たちの人生をどうにかしようとしていただけ。自分の人生が、このままでは駄目だと、何かがおかしいと、ずっと与えられた試練や人生そのものに苦しんでいた。それを与えられた試練、与えられた人生だと気付くことで、こんなにも映画とは冷たいものだったのかという感覚に繋がるのは凄いなと思った。



人生の奴隷のような感覚を主人公たちは持っていたんだろうなと思う。帰宅して、誰もいない自分の部屋を見て立ち止まる一瞬が、自分の人生を疑う瞬間として日々の中にある。場面が変わることで、その瞬間を見て見ぬふりするしかないっていう表現だったのかなって思う。

うら寂しい、切ない。ぽっかり穴の空いたような、満たされない日々。
こんなはずじゃなかったのに。もういい、もうたくさん。こんなにやっても、こんな場所にしかいれないのか。いつまでここにいるんだ。止まらない今までの人生への不平不満。
なぜこんなことを続けてる?何のためにこんなに頑張ってる?この苦労は何のために?人生って誰のためのもので、なぜ、何のためにある?答えの出ない問いが積もり積もっていくだけの人生。
人生にうんざりしているのに、人生が立ち止まらない、人生だけが勝手に突き進んでいるような感覚、そんな抜け出せない虚無感みたいなのが物語を通してずっとあったように感じた。



結末が主人公達の自由と自分だけの人生へと繋がる、不思議な感動があるラスト。

フレーム、画面の枠に閉じ込められた人生。作家に監視された世界。観客の視線を感じる人生。
撮られることが、カメラによる監視、作家の視点、観客の視線、を背後に感じるっていう立ち位置で、映画の中に生きる生き辛さを漠然と感じさせていたと思う。

フレームに閉じ込められる事なく画面から見切れて、創作の世界から自由になった、作家の物語から自由になって、画面の枠外に置き去りにされていく。
この映画自体の外側へと、自由になるっていうことが、自分の意志で生きていく人生の始まりであって、神の意志から解放された、本当の自由なのかなって思った。

淡い光とともに、カメラは溶けていって、この映画そのものの視点は光の中に消えて無くなっていったのかなって思う。ラストのカメラワークが、主人公2人を尻目にこの映画の結末を表している終わり方は不思議な感動があって、粋な終わらせ方だなって思った。



音楽の持つ力を重要に、大切に扱う描かれ方。

音楽が現実を揺さぶる。音楽が現実に風穴をあける。別の現実と共鳴する。音楽だけが時空を超える。という具合に音楽を重要な扱い方をしているのに、せっかくの音楽の描写が訳がわからない。

音楽が持つ力、っていうのを神の立場である監督が大事にしているなって感じた。神として監督が望むものっていうのが音楽で、音楽っていうのは監督が崇める創作の神そのものなのかな。
音楽とは、訓練されている必要はなくて、完璧な音源である必要もなくて、その人にとっての音楽そのものが、その人だけの究極の音楽。っていうことなのかな。

誰のためでもない独り言のような歌、鼻唄、音質の悪いクラシック曲、練習していない楽器の演奏。プロの演奏でも歌声でもある必要がなくて、悪い音質でもよくて、自分なりのその瞬間だけの音楽で構わないってのは良いなと思う。下手でも、適当でも、自分が満足さえすれば音楽は音楽に変わりないってのが、音楽が独占されてなくて平等に宿った神の力、なのかなって思った。



夢、のような不思議な感覚、印象だった。

物語なんだけど夢、夢なんだけど現実、現実なんだけど物語、を循環してるような世界観。いまいち違和感を解明してくれないし、気になる部分に行ってくれないけどその、もどかしさ、みたいなのも夢を見ているときの感覚に似ていてそれはそれで面白かった。

視点とか、カメラワークが独特で意味ありげなんだけど、結局よく分からない。これも、夢を見ているようで、記憶を覗いているようでもあって、現実として体験してるようで、っていう変な感覚だったので世界観として楽しく観れた。

夢の中での変な感覚っていうのの再現度が高いなって思った。個人差があるだろうけど、この作品の全てが自分にとって、たまに見る映画みたいな夢そのまんまやんって感じた。
まぁ、強いて言えば夢特有のアハ体験やトリップ感、支離滅裂さ加減はかなり控えめだったかな。

普段、洋画ばかり観てる人が『君の名は』を観たその日の夜に見る夢の内容って、たぶんこの映画みたいな感じ。その夢を覗いてるような感覚。あとは、『奇跡体験アンビリーバボー』を観た日、『グランドセフトオート』を長時間プレイした日の夜に見る夢。この感覚にも近いかな。

大作映画ばかり観てたらこの映画を楽しめなかっただろうなって思う。最近、低予算映画ばかり観ていたから、めちゃくちゃ楽しめた。この映画を楽しむために導かれていたのかもしれない、なんて思ったり。そういう偶然も重なって、この映画がより一層と不思議で、奇妙な映画体験になったので面白かった。

この映画を楽しめた人達はもしかしたら、それぞれの夢の物語をお互いの夢の中で書いていて、その夢を観て毎夜楽しみ合って、夢を観終わったら明日になるのかな、なんて思える不思議な映画だった。
麟チャウダー

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