麟チャウダー

ミッシングの麟チャウダーのネタバレレビュー・内容・結末

ミッシング(2024年製作の映画)
4.5

このレビューはネタバレを含みます

舞台挨拶付き試写会にて。

※爆烈にネタバレあり。

平気で残酷な、平気で悪質な世の中に生きていて、どうやって生きて行く?どうやって折り合いをつける?どうやって安心して信じられる希望を見つける?っていう。

自分だけしか見つけられない、自分が見つけた自分だけの希望それだったら安心して信じられる、それを見つけよう。だから自分の人生と向き合おうよ、って。

人の人生を邪魔するべきじゃない。本当のことは本人にしか分からない、当事者しか知らないのに。知ってんのかよ、って。

ひとりひとりが出来ることをやっていこう。その積み重ねで、巡り巡って、助け合ってる、分け合って、心を救い合ってる。だからみんなで生きようよ、って。言っているのかな。/
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当事者にしか、その人達にしか分からない、その人のためだけの光が用意されているんじゃないかな。

通学路の小学生に娘の姿を投影して、そこに娘の存在を感じる。その間だけ娘がそこにいて、娘のための居場所がそこにできる。そうやって娘との思い出や確かな娘の存在が、失われずに済む。そしてその瞬間でなら、娘と会える。

娘が拾って来たガラスの瓶を透して、日の光が彩られて家の中を照らす。その光を見つけた。それは娘がいた確かな証であり、これからもそうやって母の日々を照らす希望であり、娘と母の永遠の繋がりなのかなって思う。/

それがその人のために用意されたもの。当事者には用意されているものがあって、当事者にしか分からなくて、関係ない人達の前には無くて知ることもできない。そういうものが、あるんじゃないかな。関係ない人たちには何も用意されていない。

娘の居場所のために生きていてあげよう。って。
関係ない奴らの知らないところで、折り合いをつけて、ちゃんと生きて行ってやろう、って。

今にも、未来にも娘はいる、って思えるといいな。これからの方にも娘はいる、これまでの方だけにしかいないわけじゃない、って思えたらいいな。
過去にも、現在にも、未来にも、大切な存在はずっと保証されていると思う。どんなに残酷な世の中でも、それだけは揺るがない世界観であって欲しいなって思う。/

過去にある愛だけではなくて、現在の日々の中に見つかる過去を連想させる何か、その何かを見つめてる間にその瞬間に芽生える新鮮な愛の方も、愛そうよってことでもあると思った。

乗り越えて次に進もうではなくて、共に進もう。ちゃんと現在や未来の中にもある愛を探して見つけてあげようよ。っていう。過去にだけあるものじゃない、そう思えたら、いいのにね、っていう願いや祈りがあったと思う。/

無関係な奴らなんか置き去りに、当事者だけが知っていること、当事者のためだけの、当事者だけにある先へ進めたらいいなって思う。
あの時どうすればよかったのか、を悩まされるような攻撃ばかりされる。でも考えるべきは、これからどうして行こう、ってことなのに。
部外者は、情報が古い。生きて行くには進まないといけないんだから、断片的な過去の情報しか知らない無関係な人たちに構ってる暇なんてない。

当事者には先がある。自分の人生に実際に起こっていることだから、その先まで用意されている。無関係な人達には何も無い。関係のない人達は、当事者がその先へと進んで、何を見つけるのかを、今は何を見ているのかを知ることはできない。/

必死で小さな希望にすがる度に裏切られて、傷ついていた。
けど最後は、自分で娘の居場所を作り出したり、見つけたり、探したり、するようになった。そのことに傷つかないでいられるようになったのかな。

どうやって信じられて安心する希望を見つけられるのか、自分だけしか見つけられない、自分が見つけた自分だけの希望。
それだったら安心して信じられる、それを見つけることができたらいいなって思う。/
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みんな事情があったけど、その事情それぞれに対してそこに誰かが居てくれた、ってのは吉田恵輔監督らしいなって思う。

些細な一言で心が救われたり軽くなるような、さりげない会話がいいなって思う。記者の砂田が後輩から憧れられていたり、圭吾のトラック運転手の先輩が責任を感じていたり、それが分かる一言があると無いとじゃ大違いだと思う。
農園で働く女性が捜索に参加してくれたり、印刷所のおじさんが密かにポスターを刷ってくれたり。

そういう会話や、人との繋がりや関係性、出来事があるから捨てたもんじゃないって思えるんだと思う。/

ラスト間際、二人目の行方不明者だった母と娘が手伝うと申し出る場面。めちゃくちゃ泣けた。

「勝手に手伝ってただけだったのに、今度は私達のことを手伝ってくれるんだって」っていう顔で振り向いたら、夫の豊が泣いていて、初めてあんなに泣いてる姿が映ったから印象的だった。
ずっと堪えていたんだろうなって。豊は、この瞬間では傷付いていたんじゃないかな、やっぱり先を越されたってのもあって、今まで自分もみんなもたくさんやって来たのに、自分たちの番じゃなかったってことに、今までやって来たことを嘲笑われたようで、悔しかっただろうなって思う。

そんな姿を見た沙織里の、石原さとみの表情も良くて、温度差が一致した安堵のような、夫の気持ちへの優しい抱擁のような、少し困まり顔を含んだ笑顔だった気がした。私たち本当はずっと同じ気持ちだったんだね、っていう。夫の豊の気持ちに、やっと触れられた場面だったんじゃないかな。
その瞬間へ、そこまで運んでくれたのが沙織里と豊が勝手に手伝っていた母娘で、その繋がりがあったからこその場面だったなって思った。/
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夫の豊の態度や気持ちも分かる気がする。自分の心と現実の矛盾がある中で、悲しめない、焦れないんじゃないかな。心が耐えられないんじゃないかな。

自分の感情を現実が許してくれない中で、心が死んで、反応しなくなるんじゃないかな。現実とか事実に、感情が押し殺されてしまう、自分のものじゃなくなってしまう。心が返って来ないんだと思う。

先にある希望や可能性の方ではなくて、目の前の事実や現実ですでに疲れてるんだろうなって思う。心が強くないから、大きな期待や希望を抱え込めないんだと思う。

妻の沙織里が、先を見て、希望を見ていられるようにって、きっとそのために出来ることをやろうとしてくれてて、それが精一杯なんだと思う。妻の沙織里のために出来ることはあっても、自分の心や感情のために出来ることって無いんだと思う、そこまで強くないんだと思う。自分の心のためにやっていたら、耐えられないんだと思う。

だから沙織里が折り合いをつけて、次は豊の番なのかなって思う。今度は沙織里と豊の2人で、豊の方の折り合いをつけて行くのかな。次は豊が悲しむ番なのかなって。/
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知らない子が行方不明になって、知らないところで解決して、知らない親子のために泣いていた妻に対して豊が「沙織里、お前すげぇよ」って言ったところ、めっちゃ泣いた。本当にそうだなって。
豊はきっと沙織里のようには思えてなかったと思う、でも沙織里が泣く姿が、きっと豊の中に芽生えていた負の感情を洗い流したんじゃないかな。
でもそうだよなって、これは本当は喜ぶべきことなんだよなって、個人的な事情と重ねて他人の喜びを妬んで台無しにするべきじゃないよなって、踏みとどめてくれたんじゃないかな、沙織里の存在が。

そんな妻のことを誇らしかっただろうし、妻のその姿を見ているのは豊だけで、その瞬間が誰にも邪魔されずに済んだことも、よかったなって思った。/
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違法賭博を誘った罪悪感を持つトラック運送の先輩。一緒に苦しんでくれていた、一人じゃなかった。俺も責任を感じてるって言って、半分背負ってくれた、抱えてるものを軽くしてくれた。それをしてくれるのは凄く大事な関係だと思う。
圭吾にとっての事情を分かってくれる唯一の存在として、よかったなって思った。/
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脚立を積んだ白い車に乗る男と小さな女の子を目撃した圭吾。
女の子は帽子にマスクをしていて、白い車の男に誘拐されたかのように、圭吾にだけそう見えていたのかもしれない。

本当の親子なのに、まるで誘拐された女の子のように目に映った、それは圭吾にはそう見えていただけで、実際は怪しく見えていなかったのかもしれない。
正しく現実を見れなくなる瞬間があって、そういう苦しみを抱えていたのかなって。
圭吾は過去の記憶もあって、そういう形で一人で傷付いて、一人で戦っていたのかもしれないなって思った。/
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弟の給付金の支援、過去の誘拐だったり、姉の沙織里にも知らなかったことがあったっていう場面。それは、沙織里に対する、知ってんのかよ、っていう指摘で、沙織里も悲しいからってどんな態度も許されるわけじゃないっていう叱責だなって思った。

娘の美羽を想ってくれる存在として、弟の圭吾は大きな存在だと思う。娘の美羽を想ってくれる人の総量が増えれば、娘の居場所も増える、広がると思う。そのために大きな役割を果たしてくれる一人として、圭吾がいて、歩み寄れたのは良かったんじゃないかなって思う。/

病院の帰り道、車で沙織里と圭吾が話をする機会があって、それがあったから2人は歩み寄れたのかなって思う。

圭吾の事情を知った上で、圭吾だって美羽に会いたいって想いがあって涙して、心も体も傷付いた圭吾を見てきっと沙織里の優しい心の部分が圭吾に寄り添ってしまったんだろうなって思う。
そうやって2人で本音で話している時に、事件当時楽しんでいたアイドルの曲が流れてまるで沙織里を責めるような皮肉に、泣きながら笑ってしまう。弟の圭吾の前で初めて笑ったんじゃないかな、姉の沙織里が初めて自分の前で笑ってくれたんじゃないかな。2人の間を美羽が取り持ってくれた、繋げてくれたんじゃないかなって思う。/

昔の姪っ子の動画があって、同じ箇所に痛みがあることでこの痛みがある間は、姪っ子がいて思い出せて存在しているって感じられたんじゃないかな。同じ箇所に怪我があるって、切ないなって思ったけど、痛みがあることで姪っ子の存在がよりはっきりと感じられるだろうなって思うとむしろ優しい仕打ちなのかもしれないなって思った。

責任を感じるしか許されていなかったけど、最後にはちゃんと姪っ子の美羽のことで悲しむことが許されたんじゃないかな。/
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中村倫也演じる記者の砂田が、世の中の不条理に翻弄される不憫な登場人物だったし、仕事という観点でも共感できる部分が大きかった。正しいことをしようとしている人間が報われるとは限らないっていう世の中の冷たさが、砂田を通して伝わってきた。
自分が信じるやり方で必死でやってるのに、後輩の出世や担当事件の進展など、全て砂田の手の届かない範囲で発生していて、砂田が関係しないところで、砂田を必要としない形で、物事が動いているっていうのが凄く複雑だった。/

そういう悔しさや無力感っていうのを黙って飲み込んでいることも、分かってくれる人が周りにいないことも、寂しかった。

目の前のことに向き合ってるのに、結果が出ない。結果を出すためにやってるわけじゃないって想いで向き合いたいけど、結果を出すためにやるしかないっていう相克だったり。

事実を追うだけでなくて、視聴率のための演出や工夫や、そこには意味や物語が必要になってくる。ないもの、見えてないものを、目に映るような工夫や演出が必要になる。視聴者の興味関心を惹きつけ、上司が納得する事実じゃないといけない。そういう事実を作り上げないといけなくて、何のためにやってるんだろうっていう誰にも知ってもらえない静かな葛藤だったり。

報道の在り方を問うような、過酷な状況に投げ込まれていた人物だったなって思う。/

あざらしが海に現れるのを待ち、立ち尽くして時間を無駄に過ごす。こんな事してていいのかな、こんな事のために報道の世界にいるわけじゃないのになって、でも足掻きようがなくて。報道の世界に貢献するなら、魂を売って、困ってる人々を見捨てる道を行くことになる。何かにとっての正しさを優先すると、誰かにとっての正しさが、報道の意味が破綻する。

真面目な人たちが報われないように世の中ができていて、報われない人たちの我慢の上に成り立っている社会。間に立つ人間の苦労を知ってる人物として、矛盾を抱える仕事人として、不遇の善人として、砂田が観た人から多くの共感を集めているっていうのにも納得した。

こういう人がいなくなったら、どうなっちゃうんだろうって強く思わされた。報道の意味を、支えているのは砂田なんじゃないかなって。

だから、砂田に共感した全ての人たちに対して、あなたたちが居たことで救われた人がいて、あなたたちが居ることで救われる人がいるんだよって、砂田を通して彼らの存在を認めてあげているようだなって思った。/
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世の中に起きている出来事が自分たちの出来事だけじゃない、っていうので時が流れて日々が移り変わっていく場面。音楽も相まって涙が溢れた。/

当事者にとっては目の前の全てで大きな出来事なんだけど、他の人たちにとっては仕事の一部であったり、生活のほんの一瞬っていう小ささ。時間も、生活も流れていって、次の事故、次の関心に移って行く。 その流れの中のほんの一瞬で、小さな一部でしかないこと。/

勝手に不幸になって、勝手に傷ついて苦しんでいる人たちの前や後ろを通り過ぎていくだけの世の中。でもみんなそうするしかなくて、関わってられなくて。
幸福と平凡と不幸が肩を並べて、そこにある世の中って薄情な世界観だな、どうせ気遣いも心配もしないくせに。分配しないくせに。
でも、どんな状況下にあろうと同じように生活が求められる、ということだけは平等なんだなって。世界に八つ当たりしても仕方がないか。/

膨大な仕事の日々や時間の中の、ほんの一部だから。数ある中の、小さなひとつだから。他の人たちにとっては、その程度だから。そして次の出来事が塗り替えていき、忘れられて、進んで行く。
っていうのを相対的に見せられることで、当事者の世界と周りの人たちの世界とでは、出来事の深刻さや日常を占める割合はこんなにも違っている。
同じ世界の中で、別の世界を生きているようにさえ見えることに、罪悪感のようなものを覚え、悲しくなった。/

世界は基本的に、傷ついた人のためにあるわけじゃなくて、そういう態度や振る舞いをしてなくて。悲しい出来事を抱えていないことが前提に設計されているんだなって。

店に流れる音楽は陽気だし、当事者の背後で繰り広げられる喧嘩や文句や言い合いは下らないし、当事者を嘲笑うようなメッセージが溢れているし。傷ついた人の居場所が前提として、気を遣って作られてはいないなって。

誰かの人生に映り込む姿が、それでいいのかな?入り込む音は、そんな言葉でいいのかな?って思った。

一人一人の行動は、誰かの人生の背景になっている。景色の一部になっている。一人一人の声は、誰かの人生の音楽になっている。誰かの人生の登場人物になる時に、見せる姿や聞かれる声が、本当にそんなんでいいのかな。/

人々が何事もない毎日を持ち寄って、何事もない日々を形成しているのが社会。社会や世の中に何事かを持ち出して、何事もない日々を乱すのが、何かあった人たちってのもなんか変だなって思う。/
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この現代の日本の道徳を見直す試みをしているような。思い遣りの欠けた世界に生きていること、その中で苦しんでいる人がいること。人の想いを踏みにじる事は絶対に許されてはいけない、ってことを伝えようとしているのかなって思う。/

日本のネット社会っていうのは、アメリカにおける銃社会のような深刻な問題だと思う。
一人一人がネット社会の構成員で、いつ、どこで、誰が引き金を引くか分からないという敵に囲まれた不安が無くなることのない、嫌な社会だなって思う。敵が姿を現さないってのもタチが悪い。
不健全な奴が、社会に不健全を伝播する。悪質で、深刻な問題なんだけど、そういう奴らの声に社会の方向性が決められる節もあって、だったらそいつらだけの問題じゃなくて日本全体の問題でもあるなって思わされた。無視して、放置しているから。/

誰も、誰かの心配をしているほど暇な世の中じゃない。なのに、誰かの粗探しをして非難する暇はある。変な世の中だよ。

ネットに優しい言葉を探してもきっと見つからないし、何の救いも得られない。だから、生身の、人と人との繋がりや思い遣りの方を大事にしよう。優しさや思い遣り、協力、それができる人たちの総量を増やしていけたらいいねって、現実の人たちの優しさを次々と証明していくような展開でもあったと思う。みんな、事情を知ってくれたら助けてくれたり、それぞれにできる範囲で関わってくれていたなって。/

自分たちのためにあるもの、残っているもの、寄り添ってくれるもの、それを心の拠り所にできたらいいなって思う。
力を貸してくれる人、周りに残ってくれている人、時々現れる手伝ってくれる人、そういう人たちが何の考えも無しに居てくれてるわけじゃなくて、当事者と一番近い気持ちになれる人たちや、なろうと努めてくれる人たちだから、そこに居るんだろうなって思う。そういう関わり合いを、気付いて、大切にできたらいいなって思う。

出来ることだけでもできるだけやろうよって。それができるのは生身の人との繋がりだけなんじゃないかな。思い遣りのやり取りが人と人とを繋げて、生きていく理由や命を繋げて行っている。

ちゃんと優しい人たちの思い遣りで成り立ってて、巡ってる。巡り巡って繋がって行く。
そういう世界もあるってことが、誰かが困った時や傷付いた時にその誰かにとっての希望の一つとして、あったらいいなって思う。/
麟チャウダー

麟チャウダー