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バトル・オブ・ザ・セクシーズのbluetokyoのレビュー・感想・評価

3.8
2025年2月13日 0:59~ 日本テレビ 吹替え
なかなか凝った作品、考えさせられる。一見すると、男対女でテニスの試合をやる、ということだが、実際は、もっと事情が複雑なのだ。主人公のビリー・ジーン・キングは、当初、その申し込みをにべもなく断っている。おそらく、対戦相手が、現役を退いた55歳の男性だからだろう。これだと、試合に勝とうが負けようが、試合をすること自体、最初から男女の対戦においては負けたも同じだからだ。では、たとえば、ランキング1位の男子選手と女子選手が戦ったらどうか。間違いなく、男子選手が勝つだろう。そうなると、そもそも、対戦することに意味はあるのか、ということだ。意味がないのであれば、ビリー・ジーン・キングは、この対戦において、いったい、なにと戦ったのだろうか。それが、この映画のテーマではあると思う。

簡単にあらすじ。
ことの発端は、女子の優勝賞金額が、男子の8分の1に抑えられたこと。男子の方が稼げるのでそうなったらしい。ビリー・ジーン・キングはゲキ怒りでブチ切れた。そこで、全米テニス協会を離脱して女子テニス協会を設立した。
女子テニス協会の運営は、有力なスポンサーも付き成功した。
そんなとき、ビリー・ジーン・キングは、マリリンという美容師の女性と恋仲になる。

一方、かつてのテニス界のチャンピオン、ボビーは、ギャンブルに溺れ、妻から三行半を突き付けられて困っていた。そのとき、閃いたのは、女子のナンバーワンとテニスで勝負することだった。
すぐに、ビリー・ジーン・キングに電話して試合を申し込むも、あっさり断られている。

カネが儲かるか儲からないか、ということについては、ビリー・ジーン・キングと女子テニスは、男子テニスに善戦したといっていいだろう。

ボビーは、どうだろうか。テニスをやっているときは、チャンピオンにもなったが、引退すると、ギャンブルで、人生に敗れている。
テニス界にシニアクラスがあれば、話は別だったのだろうけど、女子のナンバーワンと対決することを思い付くわけだ。
なんとなく試合が拮抗するのではないか、という感じで、さすがに、目の付け所は、勝負師である。

ということで、人生のかかっているボビーは諦めない。ビリー・ジーン・キングのライバルのマーガレットに試合を申し込む。生活の苦しかったマーガレットは、ボビーとの対戦を引き受けてしまう。
試合は、ボビーの圧勝だった。
なぜ、ボビーが圧勝したのかというと、この試合が、男対女の試合ではあっても、ボビーにとっては、人生を賭けた試合だったからだ。

一方、ビリー・ジーン・キングは、マリリンとの同性愛に悩んでいた。そのため、テニスの試合の結果も芳しくなかった。
そう決めたからではないが、この人生の行き詰まりを打開するために、ビリー・ジーン・キングは、ボビーの挑戦を受けるのだった。

ビリー・ジーン・キングは、試合に勝ったが、人生の問題を解決できたのかどうかはわからない。とりあえず、夫もマリリンも喜んでくれた。

社会の中では、便宜上、ヒトは、男と女に分類され区分けされる。だが、個人という立場で考えた場合、その分類が、なにかの解決になっているものなのか、ということだ。
そうであるのに、無理やりに、男女という枠組みの中で解決を図ろうとするから、話がおかしなことになっていく。

ボビーは、どう考えても、ギャンブル依存症である。時代的にどのような治療方法があったのかわからないが、グループセラピーには、参加していたようだ。ただ、かつてのチャンピオンという栄光があるためかうまくいかない。
ビリー・ジーン・キングは、マリリンとの同性愛に悩んでいる。男女という枠組みを押し付けられているので悩みが何百倍にも増幅し、捻じ曲げられている。
男女の試合に見えて、実は、それぞれの人生を賭けた戦いだったわけだ。
そのことは、なかんづく個人の問題は、男女の枠組みでは、解決されることはなく、それどころか、いっそうおかしくしてしまうこともある、ということを示しているわけだ。映画は、このことに気付かせてくれる。
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