Foufou

きみの鳥はうたえるのFoufouのレビュー・感想・評価

きみの鳥はうたえる(2018年製作の映画)
3.0
カット、明度、色彩、めちゃくちゃ凝ってます。一見するとエドワード・ヤンを彷彿とさせますが、世評はどうなんでしょう。

函館の夜。とてもきれいに撮れています。今泉力哉の『街の上で』の下北沢のように。

ひりつくような青春晩期……とでも呼びたいところですが、どうなんでしょう。スッキリする映画では全然ありません。必ずしも得心されないのではないか。

今泉監督がTwitterで本作を薦めていらして、また韓国の映画雑誌のインタビューでも蓮實重彦が本作に言及していたので観てみた次第。





※ここからはネタバレ含みます。



若者(といっても三十前後のフリーター)と中年(萩原聖人)という定位がまずある。世代間の溝のようなものがあるように見えて、作り手がこれを顕在化するつもりがないのは明らか。妙に物分かりの良い萩原聖人の凄みのようなものを感じたのは小生だけだろうか。実はこの口数の少ない本屋の店長の枯れぶりこそは、この映画のレゾンデートルではないかと途中までそう思って観ていた。

大人の突きつける倫理とか道徳とか社会常識とかいうものに露骨に反発するでもなく、今日の楽しさのために生きる、を体現するかのような若者たちはいかにもノンシャランで自堕落で不潔感すら漂うが、焦りや不安、うちなる鬱屈のようなものすら無縁であるように見え、だから彼らより年下であるはずの石橋静河さえ戸惑う事態となるのだが、定型化を逃れるあまり得体の知れない存在へと極まっていく柄本佑の演技は怪演というにふさわしいだろう(だからこそ、彼は空気になりたいなどと言う)。ただ、誠実かどうかを問い続ける当の石橋静河のビッチぶりこそが、実はこの作品の最大の肝であり謎となっている。染谷将太のそこはかとなくモラハラな感じも、我々が日本映画で見慣れてしまった無軌道で自由で暴発的な若者像とはちょっとチューニングが異なっている。そう、この映画にはエドワード・ヤンのような炸裂はついに訪れないのである。

《And Your Bird Can Sing》とは、ビートルズのアルバム「リボルバー」に収録されたジョンの佳品だが、本作には言及されるはおろか、ビートルズのビの字も出てこない。あの底抜けに明るい曲調とはまるで正反対の通奏低音。青い鳥はそれでも個々の心に棲んでいる、とでも作り手は言いたいのだろうか。……と思ったら、一応、原作があるんですね。おそらくはそれを映画では相当換骨奪胎している。

きれいな映画です。函館が、美しい。今泉力哉監督の作品に相通ずる、街の濡れた感じ。オール明けの虚しさ、死にたくなる感じ、よく出ています。

もう新しいものなんてどこを探してもない、夢中になれるものなんてどこにもない。そうしたポストモダン的な諦念を生きながら、山や星を希求する染谷将太が突然映画の前面に浮上してくる。でもそれって、今に始まった生き方のスタンスであるはずもなく。

で、ビッチはおそらく自分のために離婚したであろう中年男を「ケジメをつけるために」捨て(ケジメっちゅうのがまた小生にはよくわからない。まぁ、ほら、妻子がいたからこそかっこよく見えていたということもあるわけでね)、いっかな誠実さを見せようとしない男を見限り、モラ男のところへ行こうとする。それをまた、「ちゃんとしておきたいから」という理由で面と向かって男に報告する。ビッチの行動原理がまさに自己愛にほかならないのを、まざまざと観客は知らされることになる。

しかしここで柄本佑が「好きだ!」と叫んでしまったら、空気になりたいとかなんとか、彼のこれまでの言動の全部が若者特有の驕慢と強がりという定型に収まってしまうのではないか。それでもなお、と言いたいのかも知れないが、それって観ていてやはり退屈だよね。

それでもカメラは最後の石橋静河の表情を撮った。監督は女優にどんな指示をしたのだろう。それはあまりにも……小生を通り過ぎていった女たちとよく似ているのである。つまり、女そのものを撮った、と言えるのかもしれず、それはただならぬ事態ではあるだろう。

かくして、中心点の偏在する映画なのでした。釈然としない、とも違う、なんか、共感できない映画です。誠実なんて言葉、もう何十年と耳にしないで来ましたし。めんどくさい関係が嫌いとか言ってる当の本人が一番めんどくさかったりするのも世の常で。

なんか、ちょっと自分が傷ついてるみたいなのが、なんか、ちょっと、ね。
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