ニューランド

11×14のニューランドのレビュー・感想・評価

11×14(1977年製作の映画)
4.0
✔️🔸『11×14』(4.0p)🔸『ランドスケープ·スーサイド』(3.5p)
及び🔸【IFF·パトリス·キルシュオフェール集】❶『視覚濃度Ⅰ』(4.0p)❷『色相Ⅰ』(4.2p)❸『感度測定Ⅰ』(3.5p)❹『感度測定Ⅲ』(3.6p)❺『感度測定Ⅶ』(3.5p)❻『拒食症Ⅳ』(3.7p)
🔸【IFF·米-西海岸派70年代】①『ウォーターフォール』(3.7p)②『ローズブラッド』(3.8p)③『パサディナ·フリーウェイ·スティルズ』(3.2p)④『プレイス·マッツ』(3.4p)⑤『原初の刺激』(3.4p)⑥『アナロジーズ』(3.2p)⑦『トゥエルブ(最初の3パート···)』(3.2p)⑧『パノラマ』(3.2p)⑨『ルース·コーナー』(4.0p)⑩『脈動』(4.2p)⑪『Yes,I said Yes,I will,Yes』(3.3p)///🔸IFFタイトルのバック映像(4.0p)▶️▶️


ベニングは類いまれなる映画作家だとは、思うがマメではないので、今回の8本、半分程度しか事前には観ていない。只、8本もやるなら、初期作品を外して、『Ten Sky』や『13Lake』といった(正式には後に複数形sが付くが)、純度の高い代表作を(スクリーンで)やって欲しかった気もする(『RR』や三部作はあるが』)。
ベニングを見始めて30数年。が、最初の頃は、何か妙に生臭くて好きではなかった。それがIFFの常連になる頃から印象が一新した。単純で限りなく透明な原則·イメージの繰返しの、信じがたい伸びやかさ·いつ知れず巨大さへの溶け込み、また、人間社会の縛り変わらず、のゴダールやロジェ亡き後、真の映画の巨匠は数える程になったが、その真ん中辺には位置する作家、と思うように。
『11~』 。ワンシーン=ワンカット の原則で、カット·シーンの間に黒身入るが·白い破光も入ったラフなもの。途中内外どんでんや角度変の1シーン2カットも混じってくる。列車運転室内·料理調理中の家族ら·レズカップル·煙突から白煙·ゴルフ場プレイヤー入れ替りら法外に長いカットもあるが·多くは短カット。最初の男女カップル枝分かれからフィクション的な生々しくもあるドラマもなにか変節して続いてはいってる要素も。角度·サイズ·昼夜色々変えてスーパーが何度も最頻出する。車や列車内外フォローや僅かのパンやかなりの横移動の左右への画面変化あるが多くはフィックス、限られた動きに沿って新しい外観·事態が現れたりもするが、長いカット内でも(急に)対象の人が入れ替ったり·誰もが画面OFFに移り無人になったりする、ドラマの前兆なく状況が不意に画面占拠者が変わるのでジャンプカットがあったような効果。あまりに多要素の写される対象が変移するので統一原則ルールを求めると快感の代わりに不快な印象·地域固有の何かが浮き上がる~街頭·家庭·モーテル·動物ら·大小車·列車·旅客機·スーパー·キャラやドラマ。 今観ても好きではないが、例のない、独創的とまでは言えずも·空気と光景に溶け込みまみれもしてる傑作には違いない。 特殊なビジョンの『~Sky』 や『ルール』らの萌芽さえ見える。1974年、同年生まれの、稀なる映画新基軸を纏め練り出した三作家が、第一線に躍り出たわけか、スコセッシとベニング、贔屓の、関本も入れたい(。只、個人的には70年代半ばにメカス·ブラッケージ·スノウ·原正らは知ってたが、ベニングは全く知らず、アッケルマンと並び10年遅れてやっと俊英と知ったという存在だったが)。
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30数年前初めて観たベニング映画が『~スーサイド』だったか。とにかく20世紀の間は、どちらかといえば嫌な作家だった。文書の訳文が抜けてたり速く変わりすぎるが、再見すると、まぁ、とても愛すべき映画とは言いがたいが、異常な、作家主体を引き裂くような、力強さに充ちた作品であるを確認する。ある価値観に寄りかからず、全体を作るのに通りかかったパートを存分に入り込み、後先を考えない落とさない熱。二つのこの時代の象徴的殺人事件の容疑者(少女と壮年の殺人鬼)が取調べで語るを再現した、切返しもないストレートな、狂気の熱を取り出してるのが中心部にある。その、神が人を自分に似せて作り·相貌·魂·精神を盛り込んだ勘違いが、犯行や罪の認識のバラバラさに現れ、事態を切り裂くばかりの一点集中になるべき作なのに(「暴力の連鎖」「自殺願望」「向き合えず」「凶器の行方」「記憶途切れ」)、バラけている。他の挟みはベニング的な風景図もありながら、この映画の中心に、直に結びつかないが、世界の結び付きの本質緩さを示す、テニスサーブ果てない繰返し(黒身入れ)·車主観あてどなきぐるぐる·ベッドに座りいかれた歌いまくり·変な踊りの止まらず、らのパートが併存というか、介入してゆく。事件の資料も提示されるがそっちにより突っ込んでゆくわけでもない。それぞれに独自に狂った狂気の熱が存してる。忘れ難い作ではある。
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その分、本体?の今年のI F Fは、めぼしい作に欠ける気もした。初日は、コンペの最も面白そうなプログラムにしてたが、三時からの用事が長引いて、レイトは翌日の出勤にもこたえるが、次の未知の作家の特集にする。
フランスの実験映画を代表すると書かれてるこの作家が、大作家かどうか分からないが、観れた数本は、原則·地味な塗り込み·我慢丹念に徹し、派手にではないが頭を下げた。
基本、フィルムの皮膜の乳剤が残り像が窺えるかどうかの境目·極限で、表現の剥き出し·裸に近く、定着を極めてく、奥山さん程ラジカルではないが、素朴をやさしく優雅に根っこでは強く整え尽くす作家である。
❶は、フィルムにこびりついた汚れか、最下層に残った淡い像か、単色の不思議な形が、手で縦に送られてゆく。横線やコマの境線が見え、めくられてもゆく処置の前辺りから、元々の幾つかの場面が見えてくる、人の顔だったり、崖場の家だったり、森なかの道だったり、山小屋中だったりし、見えかけると瞬時に劣化·抽象始源化し、様々な場が廻ってゆくが、終盤短く集中化·一覧化してく鮮やかさにも。地力とバランス、傑作だ。❷になると、更にまろやかさと鮮烈さが一体化して、作品として見事だ。とにかく形·エッジが流れ·トロけてて、実在するベースは分かる程度の、至福質感。追いかける後者が前2人に割り込もうとしてる繰返しに、別撮りの目指す1人の単独先行カットが入る組立の豊かなヴァリエーションら。それから急にフィルム自体の質の変移·内なる要素の増殖の、対象を越えた表現素材の絶対感に移る。フィルムの破れあちこち光透けの危機感に、フィルムの中心から青系の枝葉的感染か成長かの形態が延び拡がる様々の在り方に。❸は、くしゃくしゃした紙素材を見せて、二つの図形の拡大喰い合い?純化アニメ。大小化の反復を、独特の手触りで描く。❹は、実写の人·歩く姿·その足場の階段·向かう扉らを、存在感を強調半絵画化と不自然な動き·デクパージュで描いてく。❺は、カラフルな色調を強調、絡みダブらせ、踊る若い者らを描き込み、詰め込んでゆく。❻にはモノローグがあり、ノースーパーなのでよく分からないが、チェス盤の打ち方と、様々な日常の多面·内面性が並行し、妙で大人の味の品格がある。
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多くがデジタル(版)の中、16ミリ原版をなるたけアナログ手法で復元した、プログラムがあり、プロジェクターのせいか、もともとか、かなりくぐもって見えたが、貴重な感触もおぼえた気もした。只、対象が1970年代から80年代の西海岸の米実験映画で、黄金の60年代ならいざ知らず、この時代だとラインナップされた作品の作家は、不勉強なせいもあり、④のハマーと、⑪のソロモンしか知らない。作品らも、厳かに体系的に落ち着いた処理の手つきの見事さはあったが、60年代のやみくもな狂気·馬力は強くは感じられなかった。①は、川の水面·水中に関わる生物·自然の質感と動感を、単色ネガ反転図で慎重に多彩に描きぬき、味わいは見事。②は、寄りサイズ·角度変や、モノクロ·カラー·ネガ反転らを各々はしっとりも相互にはカラフルに、ダンサーや花を中心に描く。③は、手に盛ったスチル写真を、手で送り入れ替えながらスチルからムービーに車行きが転じてく、アナログ味わいと厳密操作のコマ撮り作。④は、動く両手の被せ合成図から、光景が透けたり·別イメージが見えたり、のやはり手つきが味わいある作。⑤は、TVモニター内の、ギザギザら横線図の動きが、アニメの原点や、機械的なるへの親しみの初源を教えてくれる。⑥は、元々か劣化か、乏しく偏ったカラートーンでの、縦横に交わる階段や廊下·開いた部屋を見つつ、左右に動く中、繰返しで新たな別光景入り、それが画面事態が縦横に多面化小画面化してく、超立体動感多面作。⑦は、子供じみた図形越しの図·後景が、半ば隠蔽されながらの変移を見せてく、これも合成作。⑧は、シルエットめの室内から、広い窓からの、景色·都市のビルらの質感と光の変移を、大きく移動しながらの捉えてく、コマ撮り滑らか時間短縮の力強い作。⑨は、部屋の角に同色·同型の三角コーナーみたいな大きな折り紙を置き、更に平面で同色白い紙を前に置いて、境を消し、映る人や物のサイズも別面(に見えないが)のと対応せず伸縮し、勝手動き、シンプルな見事手品的鮮やかさ·軽やかさに拍手。⑩は、丁寧さが、過剰さを感じさせない、見事な手つき·処理の作で、サーカスの様々な芸と、外の街角の様子を、多面的に捉え、サイズも豊かで、DIS繋ぎも細密を極める。やがて、中心となってきたロープ芸の女の子芸人と別場十数人の細やかなかつ華やかな、美しさが熟れる合成画面に。しかし、括りはモノクロの壁へぶつかり大破、カークラッシュの繰返し。前向きではなくも、見事な落ち着き捌きの総花的作だと思う。⑪は、かつての無声名画のシーンの取り上げ、白黒面積やトーンを都度不安定に、揺るがす労作。
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後今年(だけでもないが)のIFFでは、フェスティバルのタイトルバック映像が、白っぽいせせらぎの、小粒泡群、静かな微細波、テカり、載った葉、泡の重なる薄い層の淀みらを、パンしながら、何段階にも細かくズラせて、DISもさせてく、極めてシンプルを抜けた、優美な1.5分だった。
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