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冬の旅のambiorixのレビュー・感想・評価

冬の旅(1985年製作の映画)
4.4
トー横なき時代のトー横キッズ映画。

冬の南フランス。片田舎の農村の畑の側溝でひとりのホームレス女性の凍死体が発見されるが、警察のテキトーな現場検証の結果、その死は単なる事故だとして処理されてしまう。映画は彼女がそうなるに至った経緯を関係者の事後的なインタビュー証言を随所に交えながらドキュメンタリータッチで描いていく。本作『冬の旅』(1985)は、ロベール・ブレッソンの『少女ムシェット』(1967)やショーン・ペンの『イントゥ・ザ・ワイルド』(2007)などの系譜に連なる、いわゆる「野垂れ死に系ロードムービー」。世界で評価される女性監督の草分け的存在でもあったアニエス・ヴァルダの遺作であり傑作だ。

「なぜ彼女はこのクソ寒い中、ひとりで旅をしているのか?」「どこへ行こうとしているのか?」「家族はいないのか?」映画がそれらの質問に答えることはない。われわれ観客に唯一わかるのは彼女の名前が「モナ」であること。いやさ、ことによったらそれすらも嘘なのかもしれない。自身の過去を絶えず消し去りながら生きる彼女は、ヒッチハイクでもってフランスのあちらこちらを旅する。夜になるとその辺の空き地にテントを張って野宿をし、たまに善意の人たちの家に泊めてもらったりやなんかもする。けれども、どこへ行ってもその関係が長続きすることはなく、毎回喧嘩別れのようなかたちで追い出されるはめになる。

思うに、モナは今の言葉でいうところの発達障害や軽度のアスペルガー症候群を患っていたのではないだろうか。早い話、人付き合いが絶望的に下手なのである。自分を泊めてくれた家の人たちに対してありがとうも言わず、さもそうしてもらって当然だとでも言わんばかりに踏ん反り返り、彼らからそのことを指摘されると逆ギレして毒づく始末。俺がまさにそういうタイプなのだが、この手の人間はとにかく、他者と長期的な関係を築くということができない。初対面だったり二度と会わない相手ならまだごまかしが効くのだれけども、同じ相手と何度も何度も顔を突き合わせるうちに対人性の無さを否応なしに露呈してしまい、そこに発達やアスペ特有のトンチキな行動が組み合わさった結果、周りから知り合いが少しずつ消えていき、孤独の沼にズブズブとはまり込んでいく。

そして、この手の人間はまともに働くこともままならない。劇中の例でいうと、ブースに突っ立ってヤギのチーズを売ったり、植物に生えた枝の剪定をしたり、といった単純作業にモナはすぐに飽きてしまう。生きていくための糧を得るために毎日毎日同じ動作を繰り返したり、いけすかない連中の命令に従ったりすることにどうしても我慢がならない。そんなことをしなきゃならんぐらいなら、人脈リセットをかまして路上をほっつき歩いている方がまだマシだ、というわけである。俺は本作の鑑賞中、モナの姿と現代のトー横キッズとがダブって見えて仕方なかったのだけれど、ことによるとトー横キッズたちも、「正常な人間」が敷いたレールに乗っかって生きることができない人種なのかもしれない。周りはそれに対して「自堕落だ」とか「怠けてる」かなんか言うのだろうが、世の中にはどう頑張っても普通に生きられない人間が掃いて捨てるほどいる。こればっかりは理屈ではどうにもならない。

ただし、モナに限っていえば彼女が全面的に悪いわけではないようにも思うのだ。彼女が狂っているのと同じぐらい、世界のほうも狂っている。自分のことを手軽に突っ込めるオナホール程度にしか認識しておらない市井のクズ男どもや、低賃金で移民を搾取する強欲な地主や、くたばり損ないの老婆におべっかを使う遺産目当ての男。世の中には救いようのない悪徳(だいたい男)が溢れている。それらとまともに向き合いたくないがゆえにモナは当て所のない逃走を続けるのだ。むろん、トー横なき時代のフランスにトー横キッズの居場所は存在しない。安住の地を見つけることがついにかなわなかったモナが最期にとった行動とは。そこで見せる表情とは。ぜひみなさんの目で確かめてほしい。
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