まず、映画は、主人公ヨシカに、その独白の「聞かされ役」となる、街の人たちを与えた。
ミュージカル映画で、主人公たちが歌い出すと、通行人や店員が、とつぜん絶妙なサポートにまわる、という、アレだ。
「聞かされ役」たちは、ヨシカの一方的な長広舌を聞いて、微笑み、言葉を返してくれる。
それぞれむやみと個性的な「聞かされ役」たち、金髪のウェイトレスや、釣りおじさんや、バスの編み物おばさんたちは、通りすがりでありながらレギュラーであり、主人公ヨシカの「隣人」なのだ。
親密な聞き手を得て、原作の奔流のようなモノローグは、ダイアローグに、歪んだロジックと優越感と呪詛は、とめどもなく続く幸福な恋バナへと、変換される。
ヨシカ 彼は一年たっても、私の言ったことおぼえててくれてたんです。うれしかったなー、あのときのイチ、もう何度も脳内に召喚してるもん……。
彼女は話しながら、本当に幸せそうに笑う。
目を、猫のように細めて、感に堪えないような、「きゅーん」と音がしそうな、たぶんあれは、胸がいっぱいになりやすい、比較的心の弱い人の笑顔だ。
そこには、独特のフラジャイルな(こわれやすい)魅力がある。
綿矢りさの原作は、全編一人語りなので、主人公の笑顔がほとんど想像できない。
つまり、モノローグからダイアローグへという転換によって、映画「勝手にふるえてろ」は、すばらしく幸福な笑顔を得た。
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この映画は、松岡茉優のアリアだ。
全編にわたって、彼女の完璧なトーンコントロールと、タイミングの感覚(それは「桐島」の女子高生のときからあきらかだった)を堪能できる。
ヨシカ 人生初、告られたよ。いやー、急だわ。現実って急。あの猥雑なラブホ街のリアルなことよ。一見醜い現実こそ美しいのかもなあ。ザッツビューティフルサンデーだよ。
釣りおじさん なんて言われたんだよ。好きですー、なんて?
ヨシカ え? ……好きとは言われてない。え、やだ、言われたい。は? ふつう言いません?
そのサーカスじみた演技のキレは、渥美清とかジム・キャリーのような、最良の喜劇役者の系譜に連なるものだと思う。
けれど「勝手にふるえてろ」は、コメディであると同時に、非常にストレートな青春映画なので(どしゃ降りの中で叫ぶしね)、最終的に耳に残るのは、彼女の、怒りと哀しみのシャウトだ。
「ファーーーーック!」「あたしのこと、好きってウソなの!?」「スケベが!」
ああ、早くもう一回観たい。
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物語は、中盤、ガチャンと音を立てて、それこそ転轍機が切り替わるように、大きく転換する。
まず、彼女は、片想いの相手イチと、ついに心が通ったと思われた直後に、突き放される。そして、けっきょく三回しか話したことがなかった相手を思いつづけていた現実と、自分の今をとりまく、孤独地獄に直面させられる。
SNSの感想に「胸が痛い」「刺さりまくり」と書かれているのは、映画のトーンが一変する、この急転換によるものに違いない。
映画は、朝帰りの電車にはじまるその残酷なシチュエーションで、一回だけのミュージカルパートに入る。
それは間違いなく、観客の感情曲線にとってのセーフティネットになっているのだけれど(安心して泣くことができる)、と同時に、ここで彼女が歌うことは、主人公が「物語」を喪失する場面で感情のピークをむかえるという、ストーリー上のアポリアの解決にもなっている。
「聞かされ役」の投入といい、ミュージカルパートといい、作劇上の大きなギミックが、二つとも、みごとにはまっているわけで、大九明子監督自身の手になるシナリオは、本当にすばらしいのだと思う。
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会社の休憩室での、OLたちのお昼寝タイム。その胎内回帰的な、やわらかい時間の記憶が、ラスト前、ヨシカの大きな精神的転換を、後押しするように見えること。
「二」役、渡辺大知の身体がいつも的確に動いていて、例のタワーマンションの日の彼は「トムとジェリー」のトム(猫)のようだったこと。
原作のヨシカの毒吐きや不キゲンが、松岡茉優の「地味」寄りの容姿のなかで、生かされきっていること。
それらは、この物語が、映画になっていくときに、生まれたものだ。
綿矢りさの原作は、恋愛譚によって道筋とゴールを確保しつつ、車載動画のようにして、オタク的知性による脳内言語の暴走を追体験させる。
大九明子監督は、原作のエピソードとストーリーラインにはほとんど変更を加えず、それを映画へと置き換えることにインスピレーションを集中させた。
そして、その生動する時間のなかに、松岡茉優のヨシカを「生きさせる」ということをした。
それは、じつは原作の小説がしたことと同じで、ふつうの人として生きるということの「いたいけさ」が、この小さな物語には、あふれているのだと、思った。