尾崎

映画ドラえもん 新のび太と鉄人兵団 〜はばたけ 天使たち〜の尾崎のレビュー・感想・評価

3.7
ロボット、と考えないほうが楽しめると思う。ロボットのロボットとたる所以は描かれているとは言えず、ロボットでなければならない理由も描かれてているとは思えなかった。
むしろ、鉄人、と捉えた方がいい。この映画で描かれているのはロボットではなく、鉄でできた人間なのだろう。
しかし、鉄人、でなければならない理由はある。この映画の一つのテーマとして、偏見というものがあるからだ。
いわゆる、生まれ育った国、肌の色、言語、それらの相違によって生まれる偏見を、ロボットというカタチでより分かりやすいように表現されている。
つまり、この映画は、人間社会において発見するに優しい偏見やそれに準ずる差別を超えて生まれる、友情、を描いているのだろう。
差別は国境や人種に止まらない。隣人や友人はおろか、家族でさえ、我々は偏見のフィルターを通して見ざるを得ない。何しろ、人間というものは、主観でしか物事を見ることができないからだ。真なる客観など、存在しないとぼくは思う。あくまで、拡大された主観しか有り得ない。
これは、短所であり、しかし長所であるのだろう。この主観ゆえの個人なのだ。主観ゆえの愛であり、友情である。
大事なのは、自らの偏見を常に念頭に置くことではないかと思う。我々は常に誤解し、思い違い、知らず知らずのうちに偏見を抱いている。つまり、必ずしも自分が正しいとは思わないことだ。むしろ、正しくない場合のほうが多いのだ。
家族に目を向ける。ぼくは、両親を知った気になっている。兄弟を知ったつもりになっている。長年同じ家で、この広い世界に比すればほとんど密着しているも同然だったのだから、知っていて当然だろう。
しかし、ぼくは両親について何も知らないのだ。これまで何を考え、どう生きてきたのか、何も知らないのだ。知った気になっているだけなのである。家族というだけで、その偏見の目で見ているだけなのだ。ぼくが思っているのと違う人間かもしれないのだ。
大事なのはそれを認識し、相手に自分の観念を強要しないことなのではないだろうか。
ぼくが嫌っているあの人は、またあの事件は、あの作品は、実のところ、まったくの違った性質のものかもしれないのだから。

なんて、思った。いつもの如く、書き始めると止まらないのだけれど、この辺でやめておこう。感想も偏見に違いない。偏見がすべて悪いとは思わない。むしろ、芸術とは、ある種の偏見ではなかろうか。
尾崎

尾崎