近年世界的にワイルダーが再び高く持ち上げられてる(シビアな一級の映画ファンである談志も彼を誉めまくってた)が、個人的に熱狂したことはない。師匠・先輩にあたるルビッチ・Pスタージェス等と比べると、揺るがぬ頑固・強固で狂気に至りもする作家性に欠ける。狂った映画も時折創るが、かっこつき、映画内でちゃんと世間一般との折り合いを入れてて、真に狂ってるわけではない。
しかし、サイレント映画の、台詞を抑えてのスピード感・まんま野外実景へ乗り込み・スマートで過激な運動量と立体性、を残して反トーキー的でもあり、小型Jチェン・ポリスもの映画の趣あって(アクロバティック性はともかく、センス・シャープさは遥かに上回っている)、ステージ物翻案劇・社会問題劇の台詞と感情変移がリードする感が強い後年イメージからは、意外かつ新鮮に感じてく、フランス時代の作に出会う。こんなに、無意味に主観性と運動能力誇って外へ飛び出してくとは、街の実際の空気に触れてく・映画空間を自由に拡げてく当時の流行にのったものかと思ってると、次第に違ってることがわかってゆく。外へ向かうことと、悪の魅惑の世界に引き込まれることは自然さで多くリンクしてて、そこにも公正の必然を要求してく者とそこに人間本来の自然な姿に安住してく者とは、互いを親友同士と変えづも少しずつ離れてゆくのだが(トップの差配維持による一方排除によっても)、ラストの主人公の父の言葉、つづく港での人の位置で、現実に根ざし・人の歴史の上に立ったモラルを、しっかり世界に置き直した作品と分かってくる。それが、代表的ユダヤ人映画作家(今だとスピルバーグあたりか、共に『シンドラーのリスト』の実現に心血を注いだ、決め手は当時の監督予定スコセッシの起用した脚本家が握ったが)として、(映画とそれ以上の)世界・歴史の動き・バランスを配慮しつくし、陰惨さ持った自己の資質は表に出さず、しかししのび潜りこませ、韜晦も含めたすべてを方向づける、破壊のない苦笑いしつつも、奥底で歓び合う本当に広く同時に小さなモラルの世界に入り込んでゆく、個性よりも現実力学・その中の確かな自己の歴史で掴み至った正しさを優先させた後年も続く作家姿勢と見えてくる。世界を自分の力を抜いて背負ったポジションから、当面の敵を作りつつも、ニュアンスを練り込んで永い歴史に溶け入らせていくような、作り込みは誰よりも長い、高く広い理解と賛辞に満ちた現役作家生活を約束していった、と思う。