スローターハウス154

ボヘミアン・ラプソディのスローターハウス154のネタバレレビュー・内容・結末

ボヘミアン・ラプソディ(2018年製作の映画)
3.0

このレビューはネタバレを含みます

2018/11/24

今日はフレディ・マーキュリーの命日..ということで、線香をあげに..というわけにもいかないので、追悼の意も込めつつこの映画を観てきた。今日までの2週間はほとんどクイーンしか聞かず、劇場中に口パクで口ずさめるように歌詞をしっかり覚えるように努めたし、フレディの最後の恋人ジム・ハットン著の『フレディ・マーキュリーと私』も読み進めている最中だ。その上、映画を観終わった後の“アフターケア”のためにとライブエイドのDVDも購入した。..つまり、期待値をかなり高めてしまった。

まず、観ていく中で気がついたのは、史実に基づいていない点が少なからずあるということ。残念ながら、俺はこの「え?違くね?」をあまり無視できなかった。なぜ変更してしまったのかがどうにも気になる..これはファンゆえの災難か..。
そういう史実の変更を受け入れて観るように努めてみたものの、それでも物語としては深い感動は覚えられなかった。スターゆえ、ゲイゆえ、迫る死期との闘いなどのフレディゆえの孤独感や苦難だとかをまだまだ掘り下げられたんじゃないか..そんな物足りなさが拭えない。かといってこれ以上、史実を掘り下げて描こうとすると、かえってフレディという人物像からかけ離れてしまう物語ができてしまうのかもしれないし..。その人物に対する個々人の思い入れも違うんだろうし、伝記映画というのは難しいもんだね。
今になってわかったが、観る前の俺はこの映画に高いドキュメンタリー性を期待していたんだなと気づいた。

なんというかやはりフレディは偉大すぎたのだ。いや、俺の中のフレディが偉大すぎるのかもしれない。そんなフレディの人生を150分くらいで描ききるなんて、まあ無理だよな。
あるいは、フレディを映画で描くというのはまだ早いのかもしれない。彼はまだキリストだとかのフィクションみたいな人物になりきってないし、というのも人々はフレディがまだどこかに生きているんじゃないかって気がしてるんじゃないかと思う。まだ時代の中にフレディの影が色濃く残っている気がするんだよね。そんな気がする人は、なるべく史実に沿った“ほんとうの”フレディに会いたがっているんじゃないかな。俺みたいにね。
ブライアンもロジャーも、「これは映画」と割り切って制作に参加?したんだろうと思う。

..という微妙な心境の鑑賞後だったが、それでも劇中歌に合わせて(口パクで)口ずさめたのは楽しかったし、映画が終わってもウォークマンで延々とクイーンを聴き続けたのはもちろんのことだし、もっとクイーンのアルバムやライブDVDを聴き込みたいという今後の楽しみを与えてくれたのは、間違いなくこの映画のおかげだ。