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リュミエール!のmasatのネタバレレビュー・内容・結末

リュミエール!(2016年製作の映画)
3.7

このレビューはネタバレを含みます

1895年から数年、
19世紀、最末の数年で、
映画は“決定”していた。
そんな事が、あからさまに解る。

「カメラを置く場所は一つだ」
という名匠ラオール・ウォルシュの名言の引用の通り、
リュミエールは、映画の発明と共に、
その写し方、そして演出に関して、
数分の風景ショット程度の数々の短編作品によって、
全てのtheoryを定義し、設定してしまっていた。
そんな驚くべき事実が、はっきりと浮き上がる。

映画にとっての“オリジナル”は、最初の一本としてのリュミエールのみ。
以降、作られた映画は、そのバリエーション、そのコピーでしかない。
その“連鎖“ ”によって、(よくも飽きずに)125年の歩みを歩んだものだと、恐ろしい“真実”を教えてくれる。
その後、映像革命として、映画は声と色を手に入れたり、技術革新は都度、今日に至るまで延々と繰り広げられており、進化しているかに見えるが、リュミエールの“初期設定”の秘密を見てしまうと、全てはバリエーションである。
何故なら、リュミエールを“見てしまったから”だ。その時点で、人間は、いや人類は、映画とその初期設定から、逃れる事は出来ない。最早、オリジナルが生まれることができなくなった宿命を、この映画と言うメディアは背負って、今日に至っている訳なのだ。
些か、蓮見講的になってしまうが、本作は、そんな映画のその後の悲劇的な末路を、その誕生の瞬間を微笑ましく列記する事により、映し出しているのだ。

いやいや、トリックとストーリーという武器を持って、映画誕生から5年後、20世紀最初頭に“とある奇術師”が、リュミエールから、もう一ライン、映画を枝分かれさせたではないか!?と思っていたが、
リュミエールは「車に轢かれる歩行老人」という作品で、堂々とトリック演出をやって退けていた。その他、風景程度の固定映像の中に、どれだけの演出が施されていたか?も一つ一つ、本作は教えてくれる。その上、着色カラーすら、既にやっていた。

リュミエールの後に映画は有らず、
という身も蓋も無い、
まさに身も蓋も無い!揺るぎ無い実証をやって退けたドキュメンタリーであった。
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