ルサチマ

the place namedのルサチマのレビュー・感想・評価

the place named(2012年製作の映画)
4.1
2回目 2021年6月11日 @新文芸坐

冒頭のトンネルから電車が出てくるショットと、その直後に遠藤さんが青白い朝日が差し込む自室へシャツを取り込む空間の切り取り方は目を見張るものがあるものの、その後の稽古場と、遠藤さんの向かう教室、神社、そして公園の滑り台は失敗していると思う。

ワイルダーが『わが町』の中で試みたブレヒト的異化効果である客席へ語りかけたり、時間軸を飛躍させる台詞などの演出は、映画化するにあたりそれなりに影を潜める。

カメラは徹底して遠藤さんと演劇の稽古に務める女性への同化に加担し、『わが町』の戯曲に存在した、〈いま/ここ〉への意識に対する批評性は消滅する。
映画は過去の記録を映すというメディア的特性は確かにあるものの、小森はるかによるワイルダーの戯曲の読み取り記録は、演者たちに安易な亡き人々への想像を施してしまっている。

ワイルダーの戯曲を頼りとするなら、肝心なのは亡き人々への想像によって〈いま/ここ〉への意識を異化させることであるはずだ。

つまりはあの稽古場でのテキストの朗読を通じて、かつていた人と空間へ想いを巡らせ、そして〈いま/ここ〉の瞬間としての空間が立ち上がること。

しかし映画のカメラは遠藤さんの立つ静岡の自然空間をリアルなものとして示すものの、稽古場を宙吊り空間としてでしか映しきれていない。具体的には半ば強引に朗読している女性の1人を感情芝居へと導き、さらには遠藤さんまでもが涙を流すことにより、彼女の立っていた自然空間との同化を目指してしまっていることがこの映画の最大の弱点だ。

教室内で溌剌と始業式の予行練習をし、健康的な脇汗までかいている遠藤さんを幽霊として提示する試みそのものはユニークさを感じて、日時的世界を異化して提示しかけるものの、肝心な神社で泣き崩れる場面にカメラをクロースアップする露骨で意図的な操作を肯定はできない。

この映画の演出が懸けられるべきは、冒頭のトンネルから電車が通過するまでの「光の照らされ方」が孕んでいる、プラトンの洞窟の比喩で有名な「想起」にまつわる主題だったはずだ。

ワイルダーが『わが町』や『危機一髪』など様々な作品で導入する「想起」の引用は、劇場空間を「想起」の場として想定していたからに違いなく、演劇と異なり映画は明らかな空間が大前提として画面を埋め尽くすわけだが、小森はるかは静岡の自然空間を無国籍の場として提示したうえで、そこに存在する遠藤さんを徹底的に儀式的(記号的)に描き、彼女のチャーミングな仕草を廃する冷酷さを兼ね備える可能性を吟味しても良かったはずだ。

この映画の観客は物語を完璧に把握しないまでも、カメラのクロースアップと感動的に頬に流れる涙を見て安易に感動しようと物語へ同化するだろう。

そしてそれは最も安直にして、映画の見方を限定させる危険な行為だったのではないか。

この映画のトンネルから出てきた電車が暗闇を徐々に照らしていったように、この映画の細部の光へ観客の視線を誘導し、遠藤さんなる女性を普遍的な存在へと導かれたとき、そして稽古場でだらんとやりとりを見ているだけの演者の1人へカメラを向けた時、映画は本当の意味でワイルダーの手から離れ小森はるかの映画となった可能性があると思う。

色々書いたが、粗こそあるものの、テキストを通じて、かつていた人々を想像し、〈いま/ここ〉を異化されたものとして見せる。
小森はるかがこの後陸前高田を舞台に映画を記録する経緯は必然的な流れであり、現代に至る小森はるかの関心の変遷を見て取れるという意味においてこの映画は失敗してると思いながらもどこかで肯定しなくてはならない作品だ。

1回目 2021年3月14日 @ポレポレ東中野

ワイルダー『わが町』を原案としてるが、これ『わが町』知らない人はどう見ているんだろうか?

勿論この映画が完璧だとは到底思えないが、かねてより観たいと願い続けていた一本を鑑賞できたので、ひとまずこの特集上映に感謝する。

野暮なのは承知でこの映画を忘れないために作中の出来事を記録する。


冒頭、暗闇に沈んだ激情空間に夏の虫たちの鳴き声が響くと、スクリーンに赤いライトが明滅し、ライトを手に持つ若い女性とライトが照らす西瓜の存在を確認する。

冒頭の女性が自宅の机で何やら物書きをしている。手記には「忘れてた。そしてすばらしかった」の文字。机を離れ、ラジオをつける。就寝前の身支度をする。眠りにつくため枕元のライトを消し、ラジオも消す。先程のノートを手に取る。

夜、どこからかワイルダー『わが町』の朗読が聞こえている。田舎の街が断片的に照らされたかと思うと、電車が画面奥のトンネルから手前へと走り抜ける。

『わが町』の上演?に向けた役者たちの稽古。男性2名と女性2名が最初稽古場と思われる簡素な室内にいて、テキストを各々、楽な姿勢で座ったまま朗読していると、画面が全体を捉えたグループショットへ。画面左側に扉が映され、中へもう1人若い女性の役者が入ってくる。身体を床に座る女性へ向けて、1人立ったまま台詞を発する。

朝。冒頭の女性がカジュアルなスーツを身にまとい、忙しなく画面奥で手前のカメラに背を向けて鴨居に吊るされたシャツを取り込んでいる。
鞄を手に取り玄関へ。画面奥の食卓で朝食をとるお婆ちゃんに「行ってきます」と声をかける。玄関を正面から捉えたショットに。ガラス戸の外には緑が広がっている。扉を出た後も室内へ身体を向け、「行ってきます」と言って手を振っている。


夜中に撮られていた路線と思われる場所にカメラが先回りすると先程のスーツ姿の女性が歩いてやってくる。列車が到着。急いで画面右奥へ駆け出し、無事に間に合う。
カメラは列車が抜けるトンネルを正面から捉えたショット(『恋恋風塵』彷彿)。

再びエチュード。
最初は誰もいない稽古場のロングショット。
次のカットでは既に役者が揃っていて稽古をしている。先程稽古場に遅れてきた女性のやや斜め左側からカメラは単独のクロースアップで撮る。そして彼女とやりとりするもう1人の女性とその奥に座るメガネの女性が少しピンボケしてツーショットに収まっている。

学校の校舎の渡り廊下。渡廊下を走る部活動に勤む生徒らしき声と駆け足が抜けて見える。そこに荷物を抱えて運ぶスーツ姿の女性。どうやら教師らしい。校内にカメラが移動すると生徒の絵が飾られている。教師は教室の中へ入っていく。荷物を置いた後、窓を開ける。蛇口を捻り、雑巾を絞ると、教師は机を掃除する。机を拭き終えると教師は教室の後方(黒板の反対側)へ向かう。教師はカメラに対して正面を向く。シンメトリーな位置(中央)で手を広げてニコッと笑うと、カメラ側へ向かって歩き出し、黒板へ向かう。
黒板には「9月1日」と書かれている。教師はその隣に、「始業式」と書く。どうやら今は夏休みの期間らしい。生徒たちの座席方面へ体を向け直すと、「みなさん夏休みはどうでしたか?」と、誰もいないのを良いことに、新人の教師なのか、始業式という言葉にワクワクしたような顔つきで、1人で始業式の日のイメージトレーニングを始める。
カメラは横から彼女のバストショット。腕を上げた教師。夏の暑さか、若干の脇汗が健康的にシャツを濡らす。稽古場のエチュードの朗読の音声が被せられる。

再び稽古場。全員座ったまま朗読をしている。主に同じ女性の朗読がメインだが、周りの役者にもカメラが切り替わる。

再び田舎町の自宅近くの路線に戻ってきた教師。どこへ行くのか迷っているかのように踏切のあたりでフラフラしたあと、カメラがカメラ手前へ歩く彼女に寄る。
カットが切り替わるとロングショットのカメラは緑が広がり、山に囲われた土地を奥へと歩いている先程の教師を捉える。次のショットでは神社の鳥居が奥に見える。参拝する教師を横側から捉える。参拝を終えたとき、電話がかかってくる。
森の中カメラに背を向けて歩く。教師の背中をカメラはドキュメンタリーのように被写体との距離感を緊張を伴って探り始める。

稽古場。全体での稽古が終わると、カメラは突如どこかわからぬ暗闇の室内に。奥からエチュードを終えた若い女性が入ってくる。
カメラは舞台と思われる空間の俯瞰ショット。先程の女性がただまっすぐ舞台上を客席側へ歩きフレームアウト。カメラは逆に入り、客席を登っていく女性をロングショットで捉える。

舞台の幕。舞台に横たわる先程の女性。先程稽古場で朗読していたテキストを仰向けの姿勢で声に出している。両手はお腹のあたりに据えられている。女性は身体をカメラ側へ、くるっと向ける。涙を流している。

夜、公園の遊具に座る教師の姿。カメラが彼女にズームしていくと、どうやら女性は涙を頬に流していて、ズームしたカメラは少し彼女から距離を取る。被せられる音声はずっと『わが町』のテクスト。

先程の舞台に横たわった女性へ戻る。

自宅(庭先)へ出た若い女性教師を横側からのロングショットが捉える。
女教師は冒頭の赤く明滅するランプを手に取り、外へ出る。ランプを揺らしながら、女教師は地面に転がる西瓜にランプを近づける。

朝方。女性教師は家の中へと戻る。

カメラは女教師の自宅玄関前(スイカが転がってる)を捉えたショットでエンドクレジットが表示される。

幕切れ。
ルサチマ

ルサチマ