音を出すと“何か”がやってくる。
だから、絶対に音を出してはいけない。
音を出さずに生活する。これほど過酷な住環境はない。
騒音問題で近隣からのクレームとか、揉め事とかそんな次元ではなく、殺される。“何か”に。
この“何か”、一体、何者なのか。よくわからない。だから余計に怖い。何でいるのか、どれぐらいいるのか、ここだけなのか、弱点とかないのか、何で音なのか。
ただ、とにかく音が出せないんだから、こっちも動けないし、攻撃できないし、この音を取り上げられてる状況の過酷さがスゴい伝わってくる。普通は耐えられない、こんな生活。
ただそんなストレスフルな内容の映画、音がここまで極端に少ないと、ここまで得る情報というか、刺激が減るのか、と思った。何ていうか、すごく、五感的には満足感が得難い映画。
音が出せない!っていう、ストレスを見てるこっちも感じながら、早く音が聞きたい!と、音を欲してしまう。なんかそんな感じ。
で、見てて思ったのが、自然の音。これにはなぜ“何か”は反応しないのか?それがよくわからん。山の木々が風で揺らぐ音、川の流れる音。ボリュームとしては結構大きいわけで。自然発生的な音に意思はないと学習するんだとしても、自然の音って結構不規則なわけで、なんでそれを判断できるのよ、と。
劇中にもそれを利用してる場面はあるけど、だったら、川の近くとか海を目指してそこで暮らすとか、「その音には反応せずに、むしろ利用できる」ところをもっと活用したら多少なりとも住みやすくならないのかね?
みたいな、知恵の出し合いみたい、騙し合いみたいなのはもっと見たかったかなー、と。だって、音が聞きたいから。
ってのと、そんな遠い音には反応するのに、その距離でその音は誤魔化せるのか!?とか、時計の秒針を聞き取っていちいち反応してたら“何か”側も敏感過ぎてストレス感じねーのか?って言う、ちょっと成り行きの都合は感じてしまいましたね。