Osamu

ヴィクトリア女王 最期の秘密のOsamuのレビュー・感想・評価

3.8
英国ヴィクトリア女王とインドの刑務所で記録係をやっていたアブドゥールの物語。

宮廷での式典で記念金貨を女王に献上する役を命じられインドからやって来たアブドゥールがヴィクトリア女王に気に入られる。

しかし、いつの世も他所(よそ)から来た異物に人は冷たい。特に自分の椅子(地位や立場)を奪われそうになると、その余所者を必死に排斥しようとする。アブドゥールも女王の側近に攻撃される。

この作品中でアブドゥールが話す絨毯の話はその愚かさを警告している。絨毯は異なる種類の糸を組み合わせてつぐむことによって強くなる。人間も異なる者同士が手を組むことによってより良いものを創造できるはずだ。

アブドゥールと女王の側近たちの対立の構図があるが、絶対的な善と絶対的な悪の二項対立として描かれていない。アブドゥールは邪心のない全くの良い人、ではない。彼も出世したい。より良い椅子を確保したいという欲を持っている。女王も然り。余所者のアブドゥールの言葉に安心して耳を傾けられるのは、寛大な心の持ち主だからではない。女王という立場が絶対に揺るがないからだ。余所者のアブドゥールに自身の椅子を奪われる心配が無いからなのだ。

広間で小演劇を観賞する場面で、女王が隣に座る王子に対してアブドゥールの家族のために席を譲るように指示するシーンが象徴的だ。王子は王位継承者の椅子の確保に危機感を持ったのではないか。

椅子取りゲームは現代も続く。自分たちの仕事(椅子)を移民に奪われる危機感を募らせた英国民は、EU(欧州連合)から離脱し域内からの自由な人の出入りを封鎖することを選択した。

一つの椅子に他者と二人で座る、あるいは他者に椅子を譲り自身は他の椅子を探す、という方法を我々は選べないのだろうか。

アブドゥールや女王を絶対的な善として描いていないのは、現代を生きる我々の姿を彼らに投影しているからなのではないか。観客がアブドゥールたちに自身の姿を見つけ易くしているのではないだろうか。我々も椅子を気にしながら生きているのだ。
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