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ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリスのニューランドのレビュー・感想・評価

3.7
✔『ニューヨーク公共図書館 エクス·リブリス』及び『「A」』▶️▶️

 最近のドキュメンタリー映画は、長尺も普通になってきて、尚且つ、丁寧なナレーションも付いてないのも増えて、嘗ては準劇映画みたいで消化しやすかったのが、リアリティや現実の多面性を重視しているのか、とりとめのないものが主流となってきた。昔の効率のいい記録映画のスタイルは、今はテレビの番組内にしか求められない気もする。そんなあり方の代表的な巨匠、衰えぬ製作意欲とその成果では、劇映画も含めて、最高の尊い業績の弛まぬ更新者と言われるワイズマンの近作(とはいえ、デジタルと先行きを考えての事か、どこか少しスマート·効率的にはなってきてる)と、いまや、世間的にはお騒がわせ題材をその内の内のリズムと方向の息遣いまで探りあててく、この世界の一方の雄、森達也の劇場用長編の第一作を、名画座で観て以来、四半世紀振りに観る機会が続く。流石に流石の両作だが、観て一週間経っただけで、作品がポイントや論理の枠外にあるだけに、残るは感触だけで、パンフレットも勿論無いので、言語化できる記憶の部分は殆ど抜け落ち、書く事にすまない気持ちすら湧いてくる始末だ。しかし、このまま消えてくだけとなるも、悔しく、触りだけを。
『~図書館~』。 全体に、ワイズマンらしい、不定形でときに突出する不可思議な力、全体の壮大さ·可能性、というあり方ではなく·どこかスッキリもしてくる近作。本の仕分けのコンベアー辺のカッティング、別個所のパンが少し続く所、を除けば極めて美しく場に嵌った、殆どフィックス(時折ズームやパン少し)の光景·人々の独立的で連関もしてゆくカットらが、珍しいくらいにキリリと引き締まって鋭く美しく屹立し続けて、はみ出す膨らみに渡ってくが少ない作。巨大図書館の幾つあるのか分からないような分館に次々、訪ね歩いてるかんじで、そのどれもがユニークな存在意義を、書物の収集とその基準と活動、音楽·舞踏も当たり前のイベントによる付加行事、世界に対する発言のスタンスに持っている。ただ、映画カメラが捉えるはフレームさえはみ出しそうな、アクション·勢力間動揺が現れるわけではなく、枠が囲ってる不動の図書館とその内の事という、一定の世界の羅列でしかない。人や道具·内容に目先は動かされるユニーク続きも、今ひとつ沸騰まで至らない挿話と瞬間の、組立堅固スマートしっかりした作品になっている。
 しかし、様々な発言·意見が時間と人を変えて繰り返され、強められたりしていて、全体に揺るがせない、繋がって張りわたった、文明·社会への発言となり、それらが何時しか括られてくる、終盤には本当に感銘·動かされる何かをおぼえ始めてく。その配置からの昇華らしきも、はある意味圧巻の手立て。
 「市の予算での援助、民間からの寄附·助力、それぞれが刺激·高めあっての、公民共作の図書館。地元政治家も引き込み、意見させる事も役に立つ。地域に密着し連携し、不可分となる事が必要。幾つかの物·事が一時の勢いで抹消されんとしてく事を防ぎ、公平で欠落·歪みのない世界を維持してく。黒人やイスラエルの奴隷の歴史の前段階が、現状新たな移民たちの地位向上の運動の陰で、省かれ消されてはならぬ。それぞれが、孤立してはならない。図書館は民主主義の柱。皆で直に話しあい、紹介しあい、多様さがそのままに認められ、育てられる。そこで扱われる図書の、科学と詩は相互に行き来する。現実と作家の心がはたらく。それらに接していく者はその中で、前向きに夢·可能性が追われて、個々が自立されてゆく。耳や目が不自由も補完される手段は図書館の活動で高度化·有効なものとなり、書籍文化の前に全ての人は平等になる。図書のデータの急速·広範なデジタル化が進んでゆき、世界どこにあってもここの閲覧が容易になってゆくが、その恩恵に預かれぬ、弱者へのサービス·救済も具体的に勧めてゆくべき大きな事。嘗て無料閲覧で、多くの後の偉大な文化人がインスピレーションを得ていった。創作物は、書籍やその集積·分類の図書館も、想像力と描写力で作られる。それに触れ·吸収する者は、現実を再創造してゆく事になる」
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「イエスは生きていて、それが貴方だとしても、私にはどうでもいい事。私にとってのイエスは貴方ではない」と、映画『(キリストの)最後の誘惑』でパウロの言葉を思い出していた。『「A」』。この作において、麻原の教えや存在の近しさ·大きさはその手段でしかない、世間や世論に与しない純粋な青春の希求·直進の方の姿が優しく垣間見える気がするせいか。四半世紀ぶりに観た本作は、森達也が充実してきていた日本のドキュメンタリー作家の一翼を担うようになる契機の作だが、多分にジャーナリスティックな題材·取材が多くて、しかし結果はスッキリ一色に纏まりきらないはみ出しと不統一な、雑多な印象の、まるごと不可思議現実感、が現れだしてる。自分以外の他の取材メディアが画面に入ってくることが多く、撮影の機材もプロ用からホームビデオ的なものまで、画質·スタイルが雑多になっている。作者自身は後年の作のようになかなか前面に出てこなくて、後半の教団に対する警察のヤクザ紛いの挑発·暴力行為以降、やっと名乗って係るようになる。まだまだ素材をポリシーなく、寄せ集めてた時期か(しかし、作品が流れ出す前から、対象と作者、両方の人柄·そのマッチングのせいか、互いに譲らず共、互いへの信用·信頼は他所に対してとは違うものがある)。オウム事件の公判が始まり、オウム真理教の本部·支部が批判に晒され縮小され始めてた頃の、広報部長の20代後半の荒木氏を中心に追いかけていった作で、彼を始め教団の人間が、警察やマスコミの自己中心·世論を盾に無理難題·逼迫した人間のわめきに比べ、上祐氏のように自らの言葉に酔わずとも、世慣れしてなく、たどたどしくも、何かを潜った者の、迷いなさ·それでも探究の心失わず、極端や原理主義に走らぬ、自己を駆り立てないあり方が今となっては眩しい面もある。誰もが自己演出の奢りを持って生きてる、プライド先走りの現代では希少でもある。「修行」「教義」の力というより、柱を失い、それまでの枠の中から外へ接し、権力を盾にした者らや市民社会に浸った者らと直に向き合わせ意見を交わすようになっての2年間が、有形無形に鍛えてく所があるにしても、いや、余計に。ブレはなく、本人の、性体験もなく、性欲を抑える手立ても範疇外、その問題を何時しか潜り抜けてる、生まれたままの根っこが汚れなく培養されてきた稀なるポジションを感じる。不思議も、ふんぞり返ったり·激昂することのない平静·ピュアさには、麻原尊師は手段でしかない、別の日本人·人間として誠実に生きるあり方の広さのまさぐりも感じる。限界を意識しながら、具体的未来像を抱く事なく。かなり大胆に今風の歌が何回も、ガナリ立てられるので、まるで語りや行動への共感とは別の、姿勢·行動の清々しさそのものに、憶えるものがなくもない青春映画の王道の面迄を何故か強く感じてく。ど真ん中をかするくらいのそれなりに見事な伸び。罪の認識、謝罪が、施設の後始末や部分存続の意思に、ピタッと嵌ってこない、もどかしさ·扱いづらさが、当人らにも周りにもあり、それがメインに来るべきが、そうならない不可思議さ·懸念も残る。
 「仮に尊師·幹部が言われてるような事を本当にやってたとしても、あまり影響されない。家族から抜けたり対立してるわけではなく、自分を失いかけた時、出家·尊師の教義と修行が最適と、自らが迫られ·選んだだけ。今はその過程の試練の時だと」「教団がこの事でまるで変わる·方向を断ち切る訳でもなく、続いてきた流れはこの後も継がれてく」「(作家として)私は、教団の便宜も、警察の便宜も図る事は考えない。何より作品が第一。しかし、冤罪に係る様な事ならば資料提供、(弁護士に)供託する」
                  
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