垂直落下式サミング

カランコエの花の垂直落下式サミングのレビュー・感想・評価

カランコエの花(2016年製作の映画)
4.8
カランコエという花は、肉厚の葉っぱとひとつひとつのつぼみから鮮やかな色の花を咲かせる可愛らしい観葉植物だ。わりと育てるのが簡単で、水もそんなあげなくていいし、乾燥と寒さに強くて、家のなかでも外でも年がら年中咲いてる。うちの子も、花がおわって茎を切り取るとそのすぐあとから花芽が出てきて、日照時間に気を遣いながら鉢植えをベランダから室内の窓辺に移動させてみると、もう一度咲いてくれた。
この映画は、高校2年生のクラスで「LGBTについて」の授業が行われ、それをきっかけにクラス内に当事者がいるのではないか?という噂が広まってしまう様子を描いている。
LGBTQを扱う作品は、国内外、メジャー・インディーズ問わず近年多く製作されていたが、その多くが当事者のユニークを保証する叙事詩なストーリーだったと思う。そういったなかで、周りが善意でしたことがかえって仇となってしまうという現実の矛盾や葛藤に言及していく本作は、またひとつ新しい視点からのアプローチだったと思う。
優しい人ほど、弱さに無配慮だ。すべての人に正しい知識を授けて導いてやれば、若木は正しい考え方を持ちながら育って、物事は正しく解決していくだろう。その先に、すべての人に均一にチャンスと幸せが配分されるより良い社会が形成されるはずだと、こんなシステマチックな世迷い事を信じてしまう。
僕たちは、マイノリティとマジョリティのあいだにあるものを「壁」とか「断絶」だとかいって、ネガティブな意味合いでとらえている。問題は単純化したほうが見やすい。しかし、そうやって一般的にマジョリティとされる人のなかにある多種多様さ複雑怪奇さを過小評価して、マイノリティだけに目を向けて少数の弱者をすくい上げようとしていると、家の軒先に置いた鉢植えに気付かず蹴っとばしてしまう。
セクシャリティとジェンダー。特異な性質の持ち主とはどう付き合えばいいのか、まだまだ社会は試行錯誤の段階。水のやり過ぎは、かえって根腐りのもと。個の集合体に良い変化をもたらそうとしても、花摘や植え替えで人工的に開花時期を調整できる鉢植え栽培のようにはいかない。
進歩的理想を掲げるお賢いリベラルちゃんたちが、人の集合体を同じ品種の花だと、趣味のガーデニングと同じに考えて、なまっちょろい性善説から抜け出せないでいるうちは、「健常の社会」は「弱いもの」を突き放し続けてしまうのだろう。
人は自分以外の人のことなんて理解できないのが当たり前で、すべてを許せてすべてを受け入れる関係なんて綺麗事だ。
そもそも、理解のできない他者なんてものは、何も性差だとか年齢だとか国籍だとか人種だとか貧富だとか、そういう単純な隔たりだけで区分されるもんじゃない。
人間関係の「壁」なんてものはそこかしろにいくらでも存在していて、それを細かく細かくみじん切りにしていけば、結局のところ自分は自分で他人は他人でしかなくなってしまう。
目の前にいるのが誰であろうと、恋人も友達も親も自分じゃない。そいつは自分とは違う人生を歩んできた他人という当たり前だけが真実だ。そこに、いいも悪いもない。
でも、生きていく。たとえここに居場所がなくても。隔たりや差異から目を背けず、すべての個が個であることを認める。まずはここからはじめてみよう。甘腐りきった言葉が氾濫する現代を生きてきた我々と比べると、非常に鋭く新しい感覚とセンスを秘めた作品だと思う。