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ひかりの歌のkoheiのレビュー・感想・評価

ひかりの歌(2017年製作の映画)
5.0
性格柄、映画は自分の知らないことや見たことがないものを見せられたときに大きな感動を覚えることが多い。でもこの映画はそれとは正反対で「見たことがある風景」や「知っている感情」で埋め尽くされているのに、ものすごく心に刺さってしまった。そこに確かに“ある”もしくは“いる”ということを思い出させてくれるという意味では、これもまた新たな気づきを与えてくれる映画だったのだろうと思う。『ひかりの歌』を観た今の自分は、懐中電灯を無数に手にしているような心強さと安心感で包まれている。たとえ暗闇に放り込まれてもこの光をたよりに絶対に生きていけるという自信がある。


4つの短歌を章ごとの原作/タイトルとして、互いに少しだけ交わりながら4つの物語が展開されていく群像劇映画。この短歌がどれもとても美しい歌なのでとりあえず書き出しておきたい。

第1章 反対になった電池が光らない理由だなんて思えなかった(原作短歌:加賀田優子)

第2章 自販機の光にふらふら歩み寄り ごめんなさいってつぶやいていた(原作短歌:宇津つよし)

第3章 始発待つ光のなかでピーナツは未来の車みたいなかたち(原作短歌:後藤グミ)

第4章 100円の傘を通してこの街の看板すべてぼんやり光る(原作短歌:沖川泰平)


「光」をテーマにした短歌コンテストで選出された作品を原作としているということもあり、「光」はこの映画の重要なモチーフになっている。懐中電灯、プラネタリウム、自販機、ガソリンスタンド、ライブハウス、始発電車、看板。そうした光るものが象徴的に配置されながら、より強固に発せられるのは“人からの光”だ。それは一般的には光とは呼ばず、愛や優しさ、思いやりと捉えられるものなのかもしれない。本作ではそれらがすべて光として描写され、乱反射していく。

光は乱反射して暗闇を彷徨いながら、やがて必要な場所を照らしだすーー。光はまっすぐには反射せず、乱反射するからこそ人生は豊かさを増す。第1章ではタロット占いが思わぬところで反射して発した自分のもとへ「大丈夫」という言葉が届き、あるいは想い人への視線が絵画として表出され、また電話を受けた彼女は正常になった懐中電灯によって照らされる。第2章ではオロナミンCが過去から現在の自分へと手渡され、街中をランニングしたあと光り輝く自販機にたどり着く。第3章では父親によって撮られた風景写真(父親の視線)に従って東京→札幌→小樽と彼女は衝動に身を任せて移動し、父が乗ったかもしれない始発電車に乗り込み歌を口ずさむ。第4章では、ざらざらとした独特な質感のあの声がメロディを奏で、あとに続いて彼女の口からも美しい歌声が響き出す。このどれもが誰かによって発せられた光がさまざまな人やものを経由/反射しながら、やがて必要な場所へと届いていく。まっすぐな目をした野球少年やガソリンスタンドの夫婦、変な歌を歌う誠実なおじさん、黄色いウインドブレーカーを貸してくれた彼、写真屋や定食屋夫婦など、その光の道筋を手伝う人物たちの存在も忘れてはならない。なかには4人の女性たちの光が届いてしまって「好き」という感情が宙ぶらりんのままになってしまう人たちがいたのも、実にリアルで愛らしい光景だった。

トークゲストで『わたしたちの家』の清原惟監督が来ていた。同じく群像劇であるという点や、出会いと別れ、再会を描いている点、暗闇と光が象徴的である点など、共通点も多い作品の監督。彼女はこの映画を見て「映画がこちら側に飛び出してきて、鑑賞中に自分のことを考えてしまった。それは没入できていないというわけでは決してなく…」といったようなことをおっしゃっていて、すごく共感した。たしかに、僕も鑑賞中、自分の過去の思い出やそこにいた人/もののことを自然と回顧させられていたなって。「この映画を懐中電灯のようにずっとそばに置いておきたい」と観賞後すぐにツイートしたのだけれど、よく考えるとそれはちょっと違うかもしれないと思った。なぜなら、無数の光で包まれ、極自然に撮られたこの映画を観たというだけで、今までに他者によって自分に発せられていた光の存在に気づくことができたから。この映画がそばにあるとよりうれしいけど、そうでなくても、これからはこれまでに得た光で暗闇を照らしていけるような気がする。そういう大事なものの存在を思い出させてくれる映画だった。

2019.1.13
2019.1.18
再見時の感想http://bsk00kw20-kohei.hatenablog.com/entry/2019/01/23/221225
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