老人XY

アイ・フィール・プリティ! 人生最高のハプニングの老人XYのレビュー・感想・評価

5.0
自信を持て、だって?
んなもん、なんっっっの意味もない、当たり障りのない、ろくに考えられてもいない、何もわかっちゃいない奴の、ありきたりでつまらない出来合いの言葉だ。気にすんな。
言葉を変えて、自己肯定感だとか自尊心だとか、なんだか難しいもん、持てって言ってるけどよ、こっちはすでにめちゃくちゃ重くて大量の持ち物にあふれ返ってて苦しくて仕方がねぇんだよ。

《自己否定感》ってお荷物がな。
見えねぇのかよ。両手もふさがってる。背中にもこれ以上背負えねぇ。
「まずはそれを下ろそう」
そう言ってくれよ。
(私なんかダメだ)
(なにしたってダメだ)
(なんでこんなこともできないの?バカなの?)
(全部お前が悪いんだ)
(自業自得)
(生きていてもしかたない)
(私がいる意味なんてない)
(なんのために存在しているのかわからない)
(ダメダメダメ)
(ゴミ)
(クズ)
(キモい)
(どうしようもない穀潰し)
(自分なんてしねばいいのに)
こういうことを1日何回もずーっとずーーーっと自分が何か行動を起こす度に自分自身に言われるのだ。自分へのいじめである。地獄だ。地獄の日々だ。仮に1日1回だとしても10年も続けば3650回以上。すげーな。勤勉だな。

まぁ、この映画はそこまで極端じゃないにしても。
痛い→イタイ(勘違い)→イタイ(傲慢)→痛い→学ぶ
だいたいこんな展開なんだけど、イタイ(勘違い)or(傲慢)の描写が結構キツいのでここが嫌で途中で観るのやめたり、最後まで嫌悪感が勝っての低評価はあるかもね。
それに《笑い》というのは基本的に「攻撃」の概念らしい。一見意味わからないかもしれないけど、大多数の人が笑ってるのに自分は笑えないという場合、うまく言語化できなくとも、何かを嗅ぎ取ってるかもね。
でも結局何が言いたかったのか?ってのは映画において一番と言ってもいいくらい大事な要素だし、それを知るには最後まで語りきってもらって、それを結論ありきではなく、(なるべく)バイアスなしで演繹的に観ないとなって思うよ。

ちゃんと考えを紙に書き出して一旦整理してから感想を投稿しようと思ったのにムリでした。ボロ泣きしたから衝動で自分語りになっちまった。
私は30歳を越えてからようやく自己否定感とおさらば出来そうな兆しが見えてきました。自己否定感とは、自分で自分を否定的に捉えてしまう感覚のことですが、それを作り出してる根本の出来事って「自分から自分への評価」ではなく「他者から自分への評価」だったと思うんです。まず他者からお前ってクズだなって言われて、そうそうオレってクズなんですよwってヘラヘラしてる流れ。
で、そのヘラヘラしてる裏側で実はまともにダメージを受けててジクジクと痛んでたりして。
私はそこを転換させました。
そのダメージを放置しとくと容易に自己否定につながり、ひいては死にたくなってくる。だから「死にたくなるのは生き物として何かが絶対間違ってるはずだ」と仮説を立てました。その上で、「愛のない他者からの言葉の暴力」を一切無視することにしました。あなたがそう思うのは自由だし尊重するけど、私の気持ちには一切関係ないし影響もないし同調もしませんと。思ったことをそのまま口に出してしまうなんて幼児みたいでかわいいですねと。あなたもそういう風に他者に扱われて傷付いてきたのですね、と。

たくさんの映画を観てきて思うのは『愛』とは「よく観ること」なんだと思います。それは聴くことでもあり、嗅ぐことでもあり、味わうことでもあり、触れることでもある。つまりは感じること。相手をよく感じること。
よく観る。すごく難しい。

だから、愛のない他者ってのは、私のことをよく観ていない他者であり、そんな奴の言うことはてんで的外れなんで、どうだっていいんです。
自分自身をよく観てあげようってね。
うるせーよってね。
わかんないすけど。なんせ自信なんかないもんで。


・根拠のない自信について
昔は自分も、根拠のない自信でもないよりはマシだろと思ってた。
でも、本作を観ていて気付いた。
そもそも自信とは何かに支えられているものなのだと。裏打ちされたものであると。根拠のない自信を持っているというのは、その根拠をうまく言語化できていないだけなのかもしれない。もしくはハッタリか。ハッタリはハッタリで好きだ
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