都部

プーと大人になった僕の都部のレビュー・感想・評価

プーと大人になった僕(2018年製作の映画)
3.3
童心を謳歌した幼少期に好んでいた存在と酸いも甘いも知った大人になってから再会することで、改めて自分の人生を見直し童心を再獲得するというプロットは原作者A・A・ミルトンによる原作の潮流からやや逸脱したものであるものの、杓子定規的な思考に囚われた語り部に”気付き”を与える物語として及第点に達している。

基本的にくまのプーさんに登場するキャラクターというのは、優しく言葉を選べば『愚鈍の見本市』と称されるような面々で、この非現実的存在──正しくは幼少のロビンの現実に根付いた存在なのだが──が現実を生きるロビンの前に現れて醜態や失敗を晒すことに対する苛立ちのようなものは自覚的に描写されているのが興味深い。

くまのプーさんというある種の童心の象徴的存在である事実を通した上でしっかりムカつく挙動をさせているのが真面目で、ロビン同様に観客(大人)が一歩引いた立ち位置からそれを目にすることを意識した展開を繰り広げて、緩やかに我々もまた物語を通じて童心を取り戻していくような気持ちの持っていき方は考えられていますよね。言ってしまえば自分の意のままにならない庇護対象の面倒を見ることの厄介さは育児ノイローゼのそれであり、しかしその存在の飾らない振る舞いが自分の気持ちを軟化させるというのは理解できる理屈です。

本作はかなりテンポが良い作品なのでこのプロセスに淀みがないのですが、中盤の気持ちの氷解の部分が若干駆け足だったのが故に気になるところかと。だからか破れかぶれ気味──ワーカホリックで心が……──に映るのはあるんですよね。そうした過程を経て、改めてプーと対面して自分の人生を見直すことになる場面までは良かったです。

映画として纏まりを欠いたと感じるのは後半からの展開で、100エーカーの仲間達とロビンの娘の冒険劇が始まって『娘が親の書類を職場に届けに行く』という部分まで含めて御約束で類型的なドタバタコメディの域を出ないため面白味が薄いという文句もありますが、前半の作品テーマに対する現実と虚構の境界の揺らぎを無遠慮に踏み荒らしていく進行は首肯しがたい部分が強い。ロビンに突き付けられる現実的な問題、それは『部署の危機』で『家庭の危機』で、それらをプーメソッドでまるっと解決していくなら、最初からその筋でやればいいんですよ。

本作はロビンの精神的な治癒による語り部の心境の変化が趣きとしてあるわけで、それとは特に関係なく妻が非現実的存在を目の当たりにして納得してとか娘の尽力は報われないように見えて……とか対外的な働き掛けで肝心要の部分は消化される一貫性のなさが否めないんですよね。
これは万人向けを狙った作風のどっちつかずな二部構成(作品自体は三幕構成ではありますけど)による、バランスの歪みが後半に現れていて釈然としない結末に至るのは若干気になってしまったなと。

職場の重役が人間版プーさんみたいなビジュアルで、あまりにも聞き分けよくプーメソッドを呑み込むのもどうかと思うんですよね。ブランドイメージを一新するというアイディアもよくよく考えてみれば安直なものですし、社員に有給休暇を取らせることと会社の経営の回復はほぼ無関係と考えられるのに、『仕事に根詰めすぎ!』という、ただ聞き心地の良い帰結に流されてるだけで全然いい話ではねぇよとならざるを得ない。

ただそれでもそれまで同情を誘うような薄汚れた雑巾のような色合いをしていた100エーカーの面々や森が、ロビンの精神的な快復により色合いを再獲得するラストは、感動を齎すそれとして視覚的に機能していて良かったと思います。
都部

都部